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フレデリック・ワイズマン監督『大学–At Berkeley』感想

2024.9.28(日)
東京渋谷・シアター・イメージフォーラムで行われている特集上映(フレデリック・ワイズマン傑作選〈変容するアメリカ〉)でドキュメンタリー映画『大学-At Berkeley』を見た感想。

個人的にワイズマンのドキュメンタリーを楽しむ方法は大体決まっている。
その長大な上映時間の前半は、気に入ったワンシーンを見つける集中力の戦いであり、見つけた後の残りはそのシーンを忘れないでおく記憶力の戦いだ。

『大学』は、上映時間が四時間ほどある(ワイズマン的にはいつも通りの)作品で、今回のいわば「戦利品」となるシーンは、始まって1時間半ほど経った頃にあった。

『大学』の作品全体で一貫している関心を(そもそも作品自体がそれを「まとめて」などいないのだが)大雑把にまとめると、公教育とさまざまな資金の問題だ。
その中で奨学金の受給状況について話す女子学生のシーン。これが良かった。
女子学生は、自身の育った家庭環境、奨学金の受給、親にかけてしまった負担などを語り、そのうちに声を震わせ、涙ぐんでしまう。

文系の(ましてや人文系の)大学院に、奨学金や親からの少なからぬ援助を受けて通っている私としては、彼女の語る境遇自体に共感必至(というか必須)のシーンなのだが、いやはや、この女子学生が不必要なまでにかわいい。

「奨学金借りるとかなぁ、不安よなぁ、親にも申し訳n…(ていうかこの人かわいいよな?え、この人すごい美人じゃない?)学費もたk…いや待てよ、かわいいな。」

瞳は丸くて大きかった気がするが、そういうカテゴリカルな基準は役に立たない。
瞬間的・直感的に判断された「好み」は、後から思い出してそのパーツを描写して組み立てても同じものにならない。
前に頼んだピザを正確に思い出せなくても、サラミが入っていたか、トマトベースだったか、モッツァレラチーズは?といった具合に、パーツの情報をかき集めれば、きっと同じピザを注文できる。しかしそれはピザだからできる話だ。
むしろ彼女に宅配ピザ的な再現性が確保されていなかったからこそ、今このシーンに、あるいは彼女にこれだけの文字数を割いている。

ただ彼女は、いわゆるハリウッド女優のような美人という感じではない。というのも、画面上彼女の右奥には、(おそらく偶然)映り込んでいる別の女学生もまた美人であり、こちらはまさにハリウッド女優か、有名ブランドのモデルといったような感じだ。このタイプの異なる二人の美人の予期せぬ比較対照によって、直感的な好みは、ある程度実証的な好みになった。
それだけではない。溢れ出る感情を抑え、実情をあくまで整然と語ろうと努力する彼女の、少し、いや、かなりダルダルになったTシャツの胸元がやたらにはだけている。ちょっと無視できないくらいに。元々それほど露出度の高い服でないことも、この事実を強く印象付けてしまっていた。

映画では、「撮ろうとしているもの」と同時に「撮るつもりでないもの」も撮っていて、それが撮るつもりだったものよりむしろ魅力的な場合がある
小説でも、書かれている描写に作者が意図したのとは別の解釈を与えるのが面白さの一つではある。
元の意図とは異なる解釈という点で共通の魅力ではあるが、その違いを例えるなら、
小説の場合、かぼちゃコロッケを「おかず」ではなく「おやつ」として捉える、という感じ。これは映画にもあって、劇映画のあるシーンが急にドキュメンタリーに見えるとか、その逆もまた然り。
一方、先に言った映画の魅力は、かぼちゃコロッケは見方によってはどら焼きかも知れないし、実際どら焼きでもあるんだけど、かぼちゃコロッケじゃないというわけではない。という感じだ。

どう考えてもこのシーンの主となる旋律は女子学生の将来への不安や親への思いであって、彼女の容姿や色気や、まして彼女と対照を成す背後の美人なんかはノイズのはずだ。
ところが私の中でメロディーとノイズは逆転する。一方で「お前は彼女に共感すべきじゃないか」と自分に言い聞かせながら、もう一方でノイズに本能的な関心を向けている。この分裂の感覚こそ、「映画を見る」ことに求めている感覚だと思う。

このシーンで「映画を見た」あとの2時間半はほとんど何も見ていなかった気さえする。この作品の「戦利品」を途中で落として来ないように。


なぜ現地でポスターを撮らなかったのか。

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