vol.135 太宰治「駆込み訴え」を読ん
イスカリオテのユダ(新約聖書に出てくるイエス・キリストの弟子のひとり)の視点で、「旦那さま」という誰かよくわからない人に、イエスに対する感情を述べるという形式で書かれていた。
混乱するユダの苦悩やその感情に至った経緯を太宰なりの言い回しで表現している。そこがおもしろい。しっかりと読んだ記憶がない新約聖書や「ユダの福音書」にも興味を持った。
太宰の小説の中では、「私」であるユダが、「あの人」であるイエスの酷さを、官憲であろう「旦那さま」という人に、切々と訴える。
「あの人を私の手で殺して私も死ぬ」と。
「過去にはあの人に尽くして愛情を持っていたこともあったが、あの人は変わってしまった」と。
そして、「弟子たちの足洗いの場面で、イエスの言動がユダの気持ちを決定的にした」と。
イエスは弟子たちを前にして「みんなが清ければいいのだが・・」と、この弟子たちの中には裏切り者がいることを悟っているかのようにいう。そして、弟子たちの口に一切れのパンを入れたものがその者だとして、イエスはユダの口にパンを一切れ入れる。
ユダはイエスから裏切り者だと、皆の前で言われたのだ。
新約聖書によれば、ユダはイエス・キリストを裏切ったとされているらしい。ユダは、銀貨30枚と引き換えにイエスを官憲に売り渡した人物らしい。
ユダはなぜイエスを裏切ったのだろうか。
一方ユダの福音書によれば、イエスの真の教えを理解しているのはユダだけであり、イエスに最も信頼されていた信徒でもあったと語っている。
なぜ、ユダに関する記述がこんなに違うのだろうか。
初期キリスト教において、ユダ=ユダヤ人として描き、イエス・キリストの処刑の責任をユダヤ民族に負わせることが都合のいいことだったとの解説もあった。
新約新書の中ではユダは悪人なのだ。それを太宰がどう捉えて、この作品を書いたのか、その視点でもう一度読んだ。
結局この作品、新約聖書通り、ユダはイエス・キリストをお役人に金と引き換えに売り渡したのだ。
しかしちょっと裏を返してみる。
もともとイエスは自分の肉体を滅ぼしてこそ、弟子たちをまとめ上げることが可能だとする考えだ。つまり、殺されることはイエスの意思なのだ。ユダはそれをわかっていたのだ。だから官憲に引き渡したのだ。それはイエスの希望通りだった。
「あの人を殺して私も死ぬ」という人的手段の行為が、精神的なイエス・キリストを復活させたのだ。
そう思うと、ユダの裏切りとする新約聖書はどこか都合がいい。
今年、ますます信仰心はやっかいなものとして心に書き込まれた僕には、太宰のこの作品を楽しむぐらいがちょうどいい。
おわり〜〜〜〜〜〜〜〜〜
今年はこれで読書感想はおわりです。
今年一年12本しかnoteに挙げられませんでしたが、まだまだ読んで書きたい気持ちがあります。どうぞ来年も引き続きよろしくお願いいたします。
西野友章