vol.100 森鷗外「阿部一族」を読んで
熊本のお殿様、細川忠利の死去にまつわる壮絶な殉死の物語だった。
この小説によると、殉死するにもお殿様の許可がいる。勝手に後は追えない。幸運にもお殿様からお許しを得て、無事に殉死すれば、当人には名誉が与えられ、その家族には褒賞がもらえる。
400年前の封建時代、残酷な慣習があったことを思った。
「どうかお殿様の後を追わせてください。殉死をお許しください」「お許しをいただきありがとうございます。これで晴々と切腹できます。私の一族の名誉も保たれます」となる。
理解できない。殉死する家臣はどういった心理なのだろうか。
その家臣の心持ちを描いた箇所があった。
17歳の内藤長十郎は、以前酒の席で失態をしたが、お殿様からおとがめがなかった。その恩に報いるため、殉死を申し出て許可される。
その際長十郎は、「自分の発意で殉死しなくてはならぬという心持ちのかたわら、人が自分を殉死するはずのものだと思っているに違いないから、自分は殉死を余儀なくさせられている」(p155)と考えていた。
つまり、「もし自分が殉死しなかったら、恐ろしい屈辱を受けるに違いない」と心配していたのだ。死を恐れてはいないけれども、みんなの非難の視線に耐える自信がないから、お殿様に、殉死の許可を申し出ていたのだ。
命を大切にすることは恥で、世間への義理立てが最優先事項なのだ。
そしてお殿様からの殉死のお許しを得られなかった「阿部一族」は、なんとも悲惨だった。
阿部さんは、世間からは真っ先に殉死すると思われる家臣だった。しかしお許しが出ないので、奉公を続けていた。やがて、世間からは切腹をすべきだと後ろ指を指される。仕方なく切腹を決意した阿部さんの子どもたちは、父の命より名誉を重んじて、父の死の決意に安堵する。
結局、お殿様の一周忌に、長男が不義理を働いたとみなされ、阿部一族全員が討ち死にすることになった。
なんとも壮絶な物語なのだ。
江戸初期、君主が亡くなれば、家臣は後を追うように腹を切る。それが忠臣の鏡であり、美学であったらしい。
殉死は制度ではないけれど、「死ぬべき人」とみなす暗黙の掟みたいなものが武士の世界にはあったのかもしれない。君主に命を捧げる。君主は家臣に報酬を与える。家臣は君主に奉仕する。それが封建制度なのだろうか。
漱石「こころ」にも、明治天皇崩御の際に乃木希典の殉死という描写があった。現在でも、「死んでお詫びします」って、びっくりするような不合理なことを冗談っぽく日常会話で聞くときがある。日本人の心の奥には「ハラキリの美学」という血が流れているのかもしれない。
いや、恐ろしや。
おわり
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