【雑記】近況報告:承認欲求の問題とこれまでの一ヶ月;20200507
久しぶりに、こういった文章を書く。Noteの最新の記事は――小説の更新を除けば――3/24に更新されているから、最後の更新からおよそ一ヶ月強経っている事が分かる。つまりそれだけ長くの語るべき事が溜まっているという事である。
だがさすがに全部を書ききる事は難しいし、その中には書くべきでない事も含まれる(語るべきだが書くべきでない物事、これは果たして矛盾しているだろうか?)。だから、ここでは近況報告として浅く広く、この一ヶ月で起きた事とそれに対する感じた事を記していければと思う。
ちなみに今朝は早く起きすぎたから、この文章は朝書いている。コーヒーを飲みつつ、ベートーヴェンの弦楽四重奏を聞いている。仕事前なので気持ちがあらぶっていたが、この音楽で気持ちを少し楽にする事が出来た。こんな環境下でアメスピの8ミリを吸うと格別に、美味い。ただ気を紛らわすだけの為に吸うタバコとは一味違うのである。
さて、私は新しい会社に転職した。詳細を書くことは控えるが、とある会社のメディアサイト製作・運営を主とするチームに入った。私はインターネットメディアに携われれば言う事は無かったし、将来は文章を書く事を主とする仕事をやりたかったから、この職場は願ったりかなったりである。地理的にも通えない距離では無かったし、給料も良かった。もちろん、非正規雇用――パートとしての身分だが。
いきなり文章を書かせてくれるほど社会は甘くない。私はまず業界の事を知るために事務仕事をする事となった。事務仕事とか、まああれやこれやとやって、会社の事だったり業界の事だったりを理解するのが、無知識無経験の若輩者が歩くべき第一のステップだった。これは入社前から知っていた事だったし、納得もしていた。
業務内容はともかくとして、私は少しだけ、新しい職場に慣れていった。楽しみもあった。新しい人間、新しく学ぶ事、新しく歩くオフィス(幸いにも、オフィスは非常に綺麗で仕事しやすいところだった)。そういう新しい環境に自分を慣らしていく感覚が、私には心地よかった。もちろん苦しみもあった。事務作業は基本的に楽しいものではないし、8時間労働というのも慣れていなかったからへとへとに疲れてしまう。それでも時間が過ぎるのは早かったから驚きだった。前の職場では本当に時間が過ぎるのが遅かったから……。
だが例のコロナの影響で、我が会社もリモートワークをする事に相成った。私は自宅で仕事をするようになり、直接的な会話はzoomだとかのツールを使って行うようになった。自宅が職場になった事で、仕事は楽しみよりも苦しみの方の割合が大幅に増えた。詳しくはまた別の機会に書くが、とにかくリモートワークは辛い。本来休むべき所で仕事するわけだから集中とリラックスの配分調整が非常に難しいし、息抜きに外に出るという事も難しいから、陽の光が浴びれず運動不足にもなる。
仕事も徐々にミスが増えてきた。リモートワーク特有のコミュニケーションは、私には合わなかった。特に一対一で上司と話すのはしんどかったし、人間的にも、合わなかった。
そしてコロナ禍的なものも相まって、徐々に、私は壊れていった。酒量が増え、休日はずっとゲーム、建設的な事が出来ない。仕事中も苦しく身体の痙攣が収まらなくなり(タバコを吸うとそれが若干治まった)、昼休みはずっと眠る事しか出来なかった。慢性的な吐き気が続き、仕事にも支障が出始めた。そこで私は「これはもう駄目だな」と判断し、仕事を10日間ほど休む事にした。
仕事に関して、私が一番強く思うネガティブな感情は「怒られたくない」という事だった。
有能だと思われたい。自分はここにいてもいい、と思いたい。見捨てないでほしい……そういう感情が、私が仕事をする上でずっと思っている事だ。本当は誰も私の事には興味ないはずだ。それなのに、どうしてもこういう感情を抱いてしまう。
……しかしこれは、実のところ多くの人に当てはまるんじゃないだろうか。「夢、死ね! 若者を殺す「自己実現」という嘘」という中川淳一郎氏が書いた本にも、「上司に怒られたくないので何とかしてください!」と取引先に言われた著者の実体験が書いてあった。私のように思い込みが激しい人間はともかく、軽度な場合ではそういう人は実際多いと思う。
怒られたくない。だからミスをすると私は心臓がバクバクし、身体中が痙攣する。失敗したくない。失敗すれば皆が俺の事を見捨てる。使えない奴だと思われる。そうなれば、私の自尊心はズタボロだし、社会に求められていない人間なんて悲しすぎて自殺したくなってしまう。見捨てられるのが怖い。……そして実際に怒られると、私は心理的に激しいダメージを受けてしまうわけである。
さて、仕事を休み、私はまず生活のリズムを整える事にした。それまでの私は、隙が出来たら倒れるように眠り、仕事が終わった瞬間また眠るという、一日の内に十数時間もの生活を送っていた。だから、朝起きたら食事を取り、シャワーを浴び、布団を畳んで朝の内に小説を数十分だけでも書くようにした。変な仮眠を取らないようにし(それでも最初は昼寝せざるを得なかった。そのくらい眠くなってしまう)ちゃんと正しい時間に寝られるようにする。
そういう生活は心地よく、また働いていない時は本当に快適だった!徐々に元気が戻り、暇にもなってきたので再び創作意欲が湧いてきたので、創作活動を行う事にした。
だが、少ししか出来なかった。出来なかったというよりやる気が無かったという方が近い。小説を書いている間も、やっているうちに「こんなもの誰が読むんだ……」と思うようになってスタミナがどんどん削られる。
動画製作も以前と比べて2桁も低い再生数の事を考えると、「こんな動画作っても需要が無いしな……」と虚無的な気分になる。誰にも見られないのかもしれない(そして実際そうだった)のだと考えると、途端に意欲が萎えてしまうのだ。俺は一体何のためにこんな事をしているんだろう?
どうせ読まれない、見られないという悲しみと恐怖と虚無感。
それをもたらしているものは何か。
私は気付いた。それは承認欲求である。
承認欲求、これは私にとって生まれた時から存在する宿命のライバル的な存在なのだが、それが生まれ、過剰に膨れ上がった原因とその経緯を書いていると、時間が無くなってしまうので次の機会に書ければと思う。
とかく、私には非常に深い、まるで数位から数千キロも深くにある深海のおどろおどろしい化物のような承認欲求が、備わっていた。承認欲求の解決によって嬉しさと楽しみを覚え、承認欲求によって泣き自殺を考えた。承認欲求という概念は私とは切っても切れない関係なのである。
私には深い承認欲求がある。そう考えると仕事上に感じるストレスにも自然と答えが出た。私は仕事の上司に、同僚に承認してもらいたいのである。
月山さんがいて助かったよ。これも月山さんのおかげだ。俺はチームに貢献している! 貢献して、役に立って、いろんなことが出来るようになりたい!
それこそが承認欲求に依るものである。
だから、前述の仕事の話についても、これは承認欲求がもたらしたものと理解が付く。怒られたくない、失敗すれば皆が俺の事を見捨てる、使えない奴だと思われる、自尊心がズタボロになる、これは承認欲求が満たされなかった場合に起こる結果を表している。
友人の中には「人と関わりたくないから自由に回せる仕事がしたい(コンビニ店員したい)」とか言ってる人がいるが、私はコンビニ店員ほどやりたくない仕事もない。実際にやった事があるから分かる。あの場では承認欲求が満たされないのだ。行った仕事に対する見返りが細すぎるのだ。
だが、そういう友人のような、承認欲求の底が浅い人もいる。そういう人は自尊心とかをしっかり固められた偉い人だと思うし、羨ましい。あるいは自尊心を他のところで埋めているのかもしれない。
私はこの問題をコントロールする必要がある。私は何のために生きているか? ずっと考えてきた事だが、結局答のうちの一つは「承認欲求を解消する為だけに生きている」という事が段々分かってきた。だから、自分の人生を、あるいは未来を良くする為には、この承認欲求を上手く運用、運転できる力と知識が必要になってくる。
私は自分の承認欲求をコントロールする術を学ばなければいけない。承認欲求は何も悪い事ばかりに働かない。創作意欲、仕事、生活、上手く使えば素晴らしいものを作る上での原動力になるはずである。良い方向に働けば、私に出来る事というのも増えてくるはずだ。
そして、こういう事をどんどんと文章に起こしていきたいとも思う。私の心の問題、あるいは世界の問題、とにかく様々な事象を、頭の中のぐるぐるを、こうやって文章に起こす事は、問題の理解を促す事に繋がる。「人は考えてから書くのではない、書く事によって考えられるのである」……これはとある文章術の本に書いてある事の引用なのだが、本当にそうだと思う。頭の中で考えているばかりじゃ解決しない。
こういう文章を書くことこそが、権利や趣味ではなく、私にとっての義務である。義務!
つまるところ……noteの文章や小説など、またどんどん書いていきたいなという事です。仕事もまた落ち着いてきたし、何か色々書きたいですね。やりたい事も多いし、また頑張れればなと思います。そろそろ始業の時間なのでここら辺で終わります。
ここまで読んでくれてありがとうございます。貴方の人生に幸運を、貴方の自我に祝福を。
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