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【9】観察をしよう

 すごいものを見てしまった。
 …というのが、まず第一印象。

 「微隕石」とは字面の通り、微小サイズの隕石のことだが、そういった隕石は小さすぎて人間の生活圏ではサイズの近いさまざまな塵芥にまぎれて見つけられない、ということで、そういった「微隕石」を極地で収集する試みはこれまでにも行なわれてきた。

 著者は、その研究手法上の「定説」に挑戦し、顕微鏡での膨大な観察の結果、人間の生活圏から「微隕石」を見つけられるようになった。
 そのサイズはおおよそ0.2~0.5mm程度(!)

 本書では、その「微隕石」と、同程度のサイズの「微隕石」ではない微小な粒を、およそ見た目上の大きさをそろえて由来ごとに分類し、一覧できるようにした資料写真集である。

 序文でも書かれているが、これこそは、著者が「微隕石」観察の過程で見出した、雑多な粒の中から「微隕石」を選別するためのノウハウそのもので、今後、同様のチャレンジを行なう人にとっては、現時点ではベストの参考資料集である。

 一方で、本書は「微隕石」もそうでないものも、なんとも美しく、普段自分たちの肉眼では認識できないミクロの世界への招待状でもある。

 「はやぶさ」プロジェクトは、小惑星から微小なサンプルをもちかえることで、小惑星ができたころの大昔の太陽系の物質の組成を分析しよう、という壮大な試みだが、本書の「微隕石」も、地球に落ちてくるまでは同様の、ある程度の大きさの岩塊だった訳で、そのあたりは、ちゃんと分析してみると成分の組成で確認することができる(というか、当然ながら、そこまでちゃんと確認されたものが「微隕石」なのだが)。

 「はやぶさ」「はやぶさ2」のチャレンジにも科学上のロマンを感じるが、同じような小惑星由来の「微隕石」が、実は自分たちの身の回りの塵芥の中にも、意外と存在していたりする、ということが本書でわかる。
 それはそれで、ロマンだなあ、と思う。

 さて、ここでいきなり「オートファジー」の話が出ると「なんだろう?」と思う方もいるかもしれない。

 「微隕石」との共通点は地道な「観察」だ。

 「オートファジー」は、現象が明らかとなって以降は、分子生物学の高度なテクニックでさまざまなメカニズムの解析、研究が行われているが、この現象~細胞内で内容物が膜に包まれて分解されていく~は、もともとは細胞を地道に顕微鏡で「観察」して視覚的に「発見」されたものだ。

 「微隕石」「オートファジー」も、ほとんど変化のない膨大な「観察」の繰り返しの中から、ちょっとした違い、違和感などに着目してさらに「観察」を続けることから、今まで見つかっていなかった/見落とされていた「現象」を見つけたもの、と言えると思う。

 あらゆる「研究」がこういう経過を経る訳ではないが、「観察」という手法の重要性の一端を感じていただければ、と思う次第である。

 第7回でちょっと紹介した、高校生が自由研究をポスター発表する「ジュニア農芸化学会」あたりも、使える実験手法が限られることもあって、地道な「観察」の結果を元に「学会発表」に仕上げていくものが多い。
 中でも、面白いと思った発表に、「麹菌を培養しているシャーレを窓ぎわに出しておいたら、菌糸の生育に差があって、菌糸の濃い部分と薄い部分が同心円状になった」というのがあった。
 自分の研究を説明する発表者の様子もまた、なんとも楽しそうだったので、一票を投じてみたが、その場では残念ながら入賞ならず。
 ただ、同じ研究が「高校生科学技術チャレンジ」というので入賞していた、ということをあとで知って、これは納得、と思ったりしたものだった。

(なお、この「麹菌の光応答」という現象自体はまったくの新発見というわけではなく、これより前に麹菌研究の専門家の界隈でも研究が始まっていたものではあったようだ。https://www.jstage.jst.go.jp/article/jbrewsocjapan1988/103/7/103_7_525/_article/-char/ja/

 「麹菌の培養シャーレをたまたま窓ぎわに出しておいたら輪ができた」という「観察」が基礎研究の発端になることもあり得る、というのは、先に紹介したオートファジーとも通じるものがある。
 これだけでもないけど、「ジュニア農芸化学会」を聞きにいくと、「研究」プロセスにおける「観察」の重要性が改めて実感できる。初心忘るべからず。

  「観察」は、なにも科学だけに重要なものでもない。

 高校での「勉強」の目的を見失っていた主人公、久世駿平が、ふとしたきっかけで競走馬の育成牧場の世界に飛び込む『じゃじゃ馬グルーミン★UP!』で、ライバル牧場のオーナーが駿平に語るアドバイスがある。

「まず、馬を見ることだ」

 言われてすぐには何のことかわからなかった駿平だが、ある程度経験を積む中で、それは日々同じように見える、何十頭、何百頭という馬の「観察」から、馬の微妙な体調などの変化を読み取れるようになっていくことを意味していたことに気づく。
 そう思えば、こういう地道な「観察」は、なんらかの仕事をされている方なら、日々の中で普通にしていること、といってもいいのかもしれない。

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