【11】白ワインのあの香り
シャトーメルシャンに「甲州きいろ香」(現在は「玉諸甲州きいろ香」)というワインがあるが、その名前の由来はこの本『きいろの香り:ボルドーワインの研究生活と小鳥たち』で知ることができる。
前回(【10】官能検査をしよう)紹介したこの『アロマパレットで遊ぶ』の著者であり、ボルドー大学でワインの研究をされていたリサーチエンジニアの故・富永敬俊博士の初めての著書はこの『きいろの香り』だった。
ボルドー大学での研究生活の傍ら、拾った小鳥を「きいろ」と名づけて可愛がっていた富永博士は、ある時、「きいろ」から、自分の研究しているワインの香りがすることに気がつく……
富永博士が当時研究していたのは白ワインの「ソーヴィニオンブラン」の香り。
この品種は、醸造する前の果実からは感じられない独特の、ある意味強烈に特徴的なアロマで知られる。
その香りは「グレープフルーツ」「パッションフルーツ」などの果実や、日本人にはなじみのない言葉では「ツゲ、エニシダの芽の香り」、さらには「猫尿臭」などとも表現される。
紆余曲折あってついに解明されたその香りはいくつかの「チオール化合物」によるものだとわかった。
化学的には「-SH」基を含む物質を総称して「チオール」と呼ぶ。
これが「-OH」基なら「アルコール」。酸素(O)と硫黄(S)の違いだが、文字にして一文字の違いは、化学的性質としては大違い。
まず、硫黄(S)を含む物質は、総じて香り/臭いが特徴的だ。
わかりやすいところではゆで卵や温泉の臭いの「硫化水素(H2S)」が挙げられるが、日常、「なんか臭いな」と思った時、その原因物質は分子内に硫黄を含んでいることが多い。
また、香り/臭いが強い。ごく少ない量でも香りがする。
ワインに含まれている「チオール」の量は概ね「ppt」という単位で表される。
ニュースなどで「少ない量」の単位としてよく耳にする「ppm」は「mg/L」もしくは「mg/kg」、液体の場合、1リットルの液の中に1ミリグラム(1/1000グラム)の物質が含まれていることを指す単位だが、1リットルの水は1キログラム(1000グラム)なので、その物質の量は液体全体に対して1/1000000(因みに「ppm」は「パーツ・パー・ミリオン(100万)」の略)。
この「ppm」の1/1000が「ppb」、さらにその1/1000が「ppt」だ。
つまり、「ppm」のさらに1/1000000(!!!)。
この少なさは、例えばイメージしやすいように「プールに一滴垂らしたような量」と表現したりする。
ワインで見つかった「チオール」も、標準物質の試薬のふたを開けると部屋全体に強烈な香りが広がる。
その臭いは焦げ臭かったり、緑臭かったり、とにかく鼻を刺すかと思うほど強烈だ。
「チオール」には、その「焦げた香り」が、薄まってもそのまま「焦げた」ニュアンスに感じられるものが多い。
例えば、コーヒーの香ばしい香りの一部もある「チオール」によるものだが、これなどはその代表例だろう。
多ければ鼻が痛いほどだが、適度な量なら挽きたて、淹れたてのコーヒーのよい香りに感じられる。
これがワインの「チオール」の場合、鼻を刺すかのような焦げ臭さが、薄まるにつれて、フルーティなニュアンスになる。
体験してみると、なるほどこれは「グレープフルーツ」、それも、グレープフルーツ果汁の甘い香りというより、皮の白い部分を連想させるフレッシュ感のある香りだ。
この香りが「3-メルカプトヘキサノール」。
(名前の中には「チオール」の文字がないが、この中では「メルカプト」というのが「-SH」のことだ)
前回(【10】官能検査をしよう)紹介した『ワインの香り』のアロマカードにも採用されているので、「標準物質なんて手に入らないよ」という人も体験しやすくなったと思う。
(試してみたが、この香りのカードは、カードをこすった後、カードそのものを嗅ぐより、こすった指先を鼻にかざした方が感じやすいようだ)
さて、先に述べた通り、ワイン中の「チオール」の量はものすごく少ない。
しかも、「チオール」は不安定な物質でもある。
富永博士はその「チオール」だけを他の香り成分から抜き出して分析できる方法を考案して、ワイン分野で世界的な研究者となった。
それからしばらく経ったある時、メルシャンの実験室で試験醸造されていた甲州ブドウのワインの中に、ソーヴィニオンブランのような香りがするものが見つかった。
従来、甲州のワインからその香りが感じられたことはなかった。
その発見から、シャトーメルシャンと富永博士がタッグを組んで開発したのが「甲州きいろ香」。
この名前は、富永博士の愛した小鳥の「きいろ」から名づけられた。
ということで、この「甲州きいろ香」のラベルには小さな小鳥が描かれているのだが、その小鳥は……あれ? 黄色くない!? 「青い」!?
博士が拾った時は黄色かった「きいろ」は、羽根が生えかわったら青くなったという。
この小鳥はメザンジュ・ブルーという種類で、なんと、メーテル・リンクの『青い鳥』のモチーフとなった鳥だったのだ(リンク記事の写真も参照)。
ソーヴィニオンブランの香りを探す博士の家に、その香りのする小鳥がいて、それは「青い鳥」だったなんて、出来すぎのようだが、本当のことだそうだ。
富永博士は、残念ながら2008年に亡くなられたのだが、「チオール」の研究はワインの世界だけでなく、ビールや清酒の研究でもホットな分野となっている。
今日、その研究者たちが「チオール」を分析する方法には、多くの場合、何らかの形で富永博士の分析方法のアイデアが活かされている。
<付記>
なお、『きいろの香り』は残念ながら、紙の書籍としては絶版になっている(なおかつ、出版元のフレグランスジャーナル社は2024年に解散)。
ただ、出版元の出していた電子書籍版は現在も入手可能なので、これから読まれる方にはそちらをおすすめしておきたい。
また、「甲州きいろ香」はマンガ『神の雫』18巻にも登場している。
そのエピソードは、亡くなった富永博士に捧げられたものだ。