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どうして株屋?
ここでは、というよりも、SNSも含め、オンラインでは茶道家としてのことしか発信していませんが、一応、某証券会社でも仕事をさせていただいているんです。
ただ、あまりにコンプライアンスのうるさい業界で、びっくりするくらい小さなことでも首が飛びます。
なので、オンラインではもう何も発信しないようにしよう、と割り切ってました。
そんなわけで、今回はちょっとドキドキですが、あえてそっちのことについて書こうと思います。
今、僕は某大手証券会社の契約社員としてお客様の資産運用のアドバイスや、法人相手には、財務戦略、事業承継等のアドバイスをする仕事をさせていただいております。
契約社員と聞くとあまり印象が良くないかもしれませんが、僕は入社時に、契約社員を積極的に選びました。
ちょうど15年前。
世の中はどちらかというとやや就職難でしたが、東北大学工学部の大学院生だった僕は、贅沢を言わなければ選べるくらいの推薦枠がありました。
ただその就職先はもちろんエンジニア。
僕はダメ学生の典型で、やりたい仕事があって大学に行ったわけではなく、やりたいことがわからなかったから“とりあえず”大学に行っただけ。
なので、工学部を選んだのも、土木・建築を選んだのも、特にそれに関する仕事をしたかったわけではなく、ただ得意な科目が数学だけだったから、数学の配点が高いところ、という理由と、まあ何か作るのは好きかな、くらいな感じでした。
そんな理由で選んだだけなのに、大事な就職先をそのままエンジニアに限定して探すのは絶対に嫌だ、と思いました。
かといって、その時点でもやりたいことは見つかっていませんでした。
そこで僕は、とりあえず就職活動をし、とにかく先入観を捨てて1社でも多くの会社を見てみよう、と決め、一日3社から5社、地域も仙台から東京はもちろん大阪や長野、説明会があれば全国どこにでも行きました。
たぶん約3ヶ月で300社くらいは説明会に行ったと思います。
一方で、空き時間さえあれば、いわゆる「自己分析」をとことんやりました。
僕は子供の頃からどんな風に育ててもらい、どんなことに関心を持ち、どんんな人と付き合い、どんなことを考えているのか、・・・
大学に入ってから一番必死になった期間でした。
授業にはほとんどいかず、茶道ばかりしていて、バイトもほどほどに、お茶飲んでるかお酒を飲んでるか、そんな毎日。
そんな僕にとって就活は忙しくもすごく刺激的で楽しいものでした。
へぇ、そんな仕事もあるのか、こんなに給料って違うんだ、そんな風に世の中まわっているんだ、・・・
とにかく勉強になりました。
そんなある日、合同説明会の会場で、当時全盛期だったイチローのクリアファイルを配ってる人がいました。
すかさずそのクリアファイルをもらうと、そこは大手証券会社のブースで、ファイルだけもらって帰るのも申し訳なかったので、仕方なく話を聞くことに。
先入観を捨てよう、と決めていたものの、なぜかどこかで、
金融業界だけは興味わかない
と思っていました。
ところが、そこで聞かされた話は証券業界、金融業界の話ではなく、
“働き方”の話でした。
雇用形態は契約社員、1年毎の契約更新、契約更新基準は数字のみ、給料は100%歩合。
こんな働き方が日本でできるんだ!
と衝撃を受けたのを今でも覚えてます。
自己分析をする中で、
僕は、中学受験をした小学校高学年のとき以降、必死になったことがなかったことに気がついたんです。
東京に住んでいた僕は、親の意向で中学受験をすることになりました。
中学受験のための勉強は3年生の後半から始まり、遊びたい盛りに勉強ばかり。どうしたって学校の友達とはうまくいかなくなりました。
毎日毎日嫌いな塾に行き、塾では学力ごとに頻繁にクラス替えがされ、常に全国のライバルとの競争の中に身を置いていました。夏休みともなれば朝から晩まで塾に閉じ込められました。
学校も楽しくない、塾もつらい
そんな毎日が3年も続きました。
幸か不幸か、先生にも恵まれ、算数だけなら全国でも1位をとれるようになり、塾では一番上のクラスに入ることが多く、そうなれば当然、親や塾の先生ら周りの期待も膨らみました。
結局僕はそのプレッシャーに勝てなかったんです。
受験当日は決まって激しい腹痛に襲われ、一つ、また一つと落ちる度にさらにプレッシャーが増し、ついには模試で毎回必ず「99%合格」判定になっていた滑り止めの学校まで落ちました。
今の僕からは想像がつかない、ってよく言われますが、そのくらい本番に弱いやつだったんです。
結果、12校くらい受けて、なんとか1校だけ受かり、そこに行くことになりました。
そんな風にして入った学校だったものですから、入ってからはそんなに勉強しなくても学校内では上位にいることができちゃったんです。
中学高校一貫校だから高校受験することもなく、なんとなく5年間が過ぎ、さて久しぶりの受験だ、と高校3年生になったときにはなんだか根拠のない自信に溢れていて、直前まで受験勉強らしいものもろくにせず、そして相変わらず数学だけは全国で一位争い。
受験当日も中学受験のときとは打って変わって落ち着いて受けることができました。
(人間、根拠なんかなくたっていい、とにかく「自信」をもつことが大事なんだな、とつくづく思います。)
結果、第一希望の大学に行くことができ、大学に入ってからは前述の通り、来る日も来る日もお茶ばかり。
つまり、それまでの僕は小学校6年生のときの頑張りがピークで、それ以降はろくに頑張りもせず、なんとなく“うまく”やってきた人生だったんです。
それはきっと小さい頃に必死に頑張ったからそのときの貯金を切り崩して乗り切ってこれたんだと思います。その当時は嫌で嫌で本当に嫌でしたが、あとになってみればただただ親に感謝でした。
だから僕は、多くの企業のように、そこまで実績に給料が連動しない働き方を選んでしまったら、きっとこれまでと同じように、それなりになんとなく“うまく”乗り切っていく人生を歩んでいくんだろうな、という自覚がありました。
そんな僕が、フルコミッション営業という働き方を知り、
「もう一度、本気になって、なまりきってしまった自分を試してみたい。」
そう思ったのでした。
それからは、他にも同じような働き方ができる会社もあるかもしれないけど、イチローのクリアファイルのご縁だ、と、その会社に入ることを決めました。
つづく