「好きなことで生きていく」という思想の限界と可能性について考えてみた。
2020年、早くも2か月が終わりそうです。
今年はネズミ年ということで、干支の始まる年。何かを始めるのにとても良い年とされているそうです。新たな1年が始まり心機一転、夢や目標に向かって一歩を踏み出した方も多いのではないのでしょうか。
新しいことを始める際によく聞く「好きなことで生きていく」とか「やりたいことを仕事に」というキーワード。YouTubeのCMで一時期めちゃくちゃ目にして、それ以降いたるところで見聞きします。
万人の理想を一言で表す素晴らしいキャッチフレーズ。
とても素晴らしいのですが、このキーワードで検索するとあまり良い末路が描かれているストーリーがない。
「やりたいことだけでは生きていけない」
「好きなことを仕事にを信じて人生破綻した話」
なんかとても残念な話で、「神を信じたら幸せになります」とか「不労所得で生きる方法はこれ」みたいな話とほぼほぼ同じような状況になっている様です。
その反動なのか、元ZOZO役員の田端さんの「社内政治は大事」みたいな一昔前なら、社畜と揶揄されていたであろう動画がバズったりしてます。
(社内政治は大事と好きなことで生きていくという両極に見える二つは矛盾しないので注意してくださいね)
では、「好きなことで生きていく」は本当に幻想なのか、「好きなことで生きていく」という希望に満ちた道の選択肢はないのか。
というか、「好きなこと」ってなんだよ。
今回はこの思想の限界や可能性を私なりに整理してみたので、お付き合いいただきたい。
「好きなこと」を持っていること自体が才能。一般人にはそれを持つことがキツい
SNSには、才能と実績をあわせもつ様に見える、キラキラしているひとがとても多い。そんな人達を見ていると、「俺はなんてちっぽけなんだ」とか「私もこんな風に生きたいな」と思ってしまう。
そして、自分も好きなことで生きていこう!と思って具体的に何をやるかを考えたとき、大きな絶望が襲ってくる。
何もない。わたしには何もないのか。
人生で寝食忘れて没頭したこと、人並み以上に磨いてきたスキル、自分一人でも楽しめる趣味。
どれもない。。。アレ、、ワタシノジンセイッテ・・?
ここまでじゃないにしても、○○が好きだからこれの紹介ブログを書き始めよう、これの動画を作って公開しよう!と思っても、10個もネタを作ったらネタが尽きてしまう。
スキさでは誰にも負けないと思っていたことがそうでも無かったのかと思い知らされる。。。
こんなはずではなかった。
キャリア相談ではこんなお話を聞くのは日常茶飯事。
好きなことがない、もしくはそれをやり続けることができるほど好きなものを持っている人は少数派なのですね。
そして、そんな好きなことがない普通の人が、それでも好きなことで生きていくことで幸せになれると信じ好きなことを探している姿は、ほんとに辛そう。
常に自分に問いかけ続けているのです。
「こんなことでいいのか」
「自分にはもっと素敵なやるべきことがあるかもしれないのに。。」
「いつまでたっても何もできる気がしない」
さらに、これに「ビックマウスの意識高い系」という素質が加わるともうほんと辛い。
口では、今と他者を否定したうえで、自らを省みると将来の展望も見えない、とはいえ周りには大口をたたいてしまっている為、周りからの評価と現実自分のギャップを常に周りからの跳ね返りで突きつけられる。
そうなると、とにかく大きな行動を起こさなくてはとなって、無謀な会社の辞め方をして崩壊の道をひた走るみたいな冗談みたいな本当の話が出来上がる。
そう、「好きなことを見つける素質」(≒何かに対して没頭できる素質)がない人が、「好き」を見つけることはとても難しいことであり、それに縛られすぎると、ほんとにきつい現実が待ち受けていることが多いのです。
無理やり思い込んだ「好きなことは」自分を傷つける
それでも、「好きなことで生きていく」ことが幸せだと信じて、「これが好きだ」と自分に言い聞かせて前に進み始めるのも一つの手段です。そして、とにかく始めてしまって、前に進み始めるという行動は、悩み立ち止まっているより良い結果を生むことが多い。
ただ、間違った「好きなことで生きていく教」の信者に多いのは、「好きなこと=それだけやっていても苦痛ではない」と信じている場合が多い。
好きなことだからずっとやれなきゃおかしい。
好きなことなんだからやるのがいやになる瞬間なんてあってはいけない。
と、自分がその好きなことに対するネガティブな感情を抱いたときにその感情を自分で否定してしまうのです。
これはほんとに心をむしばんでいきます。
人は自分の感情を否定されると劣等感、孤独感を感じるそうです。そして、否定は他社からよりも自分自身からの方がインパクトが大きい。
自分でも無自覚なうちに自分を否定し、傷つけてしまうのです。
そう、もはや「好きなこと」を自然に見つけられない人にとって「好きなこと」は幻想であり、自分を苦しめるモノでしかないことが往々にしてあり得るのです。
こんな負の連鎖は止めなければならない。
好きなことで生きていくという思想自体はとても素敵な思想のはずなので、このような負の連鎖に陥らないように自分の人生をより好転させていくために何ができるのかを考える必要があるのです。
「好きなことで生きていく」必要はない、可能性のひとつとしてあればいい
では、「好きなことで生きていく」という理想を抱いてはいけないのか、また、それはできないことなのか。
例えばYouTubeで収益を得れば好きなことで生きていけるのか。
例えばnotoで有料記事を売れば好きなことで生きていけるのか。
例えば有名企業の役員になれば好きなことで生きていけるのか。
どれでもいいんですが、これらは手段を迷っているにすぎないので問として正しくありません。
「好きなことで生きていく」ということを実現しようとしたとき、その実現の手段は無限大に広がっていきます。ほぼ雲をつかむような状態です。
遠回りになりましたが、“好きなことで生きていく為にどうすればよいか”という問自体が、その解を導くのにふさわしくなく、「好きなことで生きていく」ことに踊らされ、ここまで話してきたような苦しさ、つらさを生んでしまうのです。
つまり、問としての「好きなことで生きていく」をやめ、可能性のひとつとして「好きなことで生きることもできる」と言葉を横においておく。そして、今の自分に一つ一つ経験やスキルを積み重ねて行くことが重要なのです。
好きなことで生きていくという人生もあるけど、自分にとって何が大切なのかな?と落ち着いて、問い直すこと。これを行って初めて、結果としての「これって好きなことで生きてるってことか」という瞬間に向かって歩き始めることができるのです。