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想起するとは、相手の中にある自分を見出すこと
”世界の教養”27日目はイデアの話。
例が「美」など限られているのでなんとも言えないけれど、美のイデアというのがあるとしたら、それは、誰もが、全ての人が、「美しい」と認めるものだということだろうか。
大多数の人が「美しい」と認めて、一部の人は「そうかなー」と思いつつも「醜い」とは言わないものは、たしかにあるかもしれない。
けれど、一部の人が「美しい」と言っても、一部の人は「醜い」=決して美のイデアは含まれていない(と思う)、というものも結構ありそうな気がする。
そうすると、イデアというのは多数者の価値観で決められることにならないのだろうか。
「赤」は一致するかもしれない。
けれど、「善」はかなりばらつきがありそうな気もする。
善のイデアを分かち持っているか否かで論争が起きそうだ。
ソクラテスは少年奴隷も例に挙げたようだけれど、幾何学についての知識の想起は当てはまるとしても、奴隷と王様で考える「善」に共通するものはあるのだろうか。
仮にかなり広い共通項があるのだと主張するならば、そこまでして広げるのは、多数者の価値観の正当性を押し付けようとすることにならないのだろうか。
こう考えると、イデアというのは、他者が理解し合えるか、という問題なのかもしれない。
プラトンは、理解し合えることを願っていたのかもしれない。
価値観を押し付けるのではなく、理解し合う。理解し合えた時、それは、マジョリティが自分の中にあるマイノリティ性を思い出し、相手=マイノリティの受け止め方がわかる。それが、「知識の想起」なのかもしれない。