「怖い絵 泣く女編/中野京子著」ビブリオエッセイ
私の歪み時代
今が何歳であろうと、生きてきた歴史のどこかで、世間に反発してみたり、悪ぶってみたり、悲劇のヒーローになりたかったり、どうもまっとうじゃない心持ちの時代があるはずだ。
それが、実生活で生じれば、まさに黒歴史となるし、想像の世界で満たされれば、大した波風が立たない人生になっているに違いない。
私はといえば、黒歴史を避けられないであろう状況を、ある必殺技で想像の世界で歪み切ってやった。
その必殺技とは、小学校一年生で「両親」を捨てた。親捨て?ではない。
母も、父も大好きだった。
ただ、二人がセットで成り立つ「両親」を捨てたのだ。
母は母、父は父、それぞれ独立した別個の存在として位置づけた。
「よく、ぐれなかったねー」
いやいや、その逆でしょ。なぜ人のせいにしてぐれなきゃならないわけ?自分の人生を、いくら親とはいえ、狂わされなきゃならないのかがわからなかった。
とはいえ、歪むのだ。
心の奥底は歪む。
その歪みの気持ちを、「本」「ドラマ」「映画」で満たしていた。
高校生で渡辺淳一に没頭し、社会人になってからは馳星周や今野敏など、世の中の底辺で蠢く当たり前のどうしようもない世界に惹かれた。
もちろん、実生活で一線を越える勇気なんてないから小説の世界で満たす。
それが、50歳を超えたあたりから、ブラックな小説を全く受け付けなくなった。
そして「大概のことはどうでもいいや」と思え、どんなことでも楽しんじゃえる技を手に入れた。
絶望としか思えない現実を必死に生きている人がいるということは、知っておいた方がいい。
小説は、真実とかけ離れているかもしれないが、それに似通った世界はあるはずだ。
小説は、摩天楼のような世界も、地べたを這いずり回るようなしょうもない世界も、覗くには恰好のアイテムに間違いない。
同じ一枚の絵。
作者の意図に関係なく、見る側が勝手に癒されたり、荒んだ気持ちに拍車をかけたりしていいし、1億の価値にも無価値にもなりうるのだろう。