二本松探訪記~後編
さて、後編です。
前編は、こちらからどうぞ。
歴史資料館を出た後、久保丁坂を登ってお城を目指します。
歴史資料館~箕輪門
この頃から、時折吹雪く悪天候に。
さらに、この久保丁坂が本当にきつい。一応二本松のこの辺りの地形が急なのは知っていたのですが、「丘の街」と称される私の地元よりも、急峻な坂道が続きます。
坂道の途中には、こんな看板も。
「がけ崩れ」って^^;
これでも二本松市の中心街です、念の為。
「男女共生センター」の少し手前に差し掛かる頃、ようやくお城の城壁が見えてきました。
「二本松北小側」の交差点を渡り、霞ヶ城のシンボルとも言える箕輪門を目指します。
その手前、見つけたのは「旧二本松城石碑」。
五代目藩主、丹羽高寛公が、藩の儒学者に命じて大石に刻ませた文がこちら。
意味は、「武士の給料は人々の汗と脂の結晶である。領民を虐げるのは簡単であるが、天を欺くことはできない。(だから領民を虐げると、天罰が下るぞ)」というように、解釈されているとのこと。
好き放題・やりたい放題やっている方々に、聞かせたい言葉ですね。
二本松少年隊群像~三の丸
石碑の手前を左折して、箕輪門を目指します。
二本松少年隊群像は、戊辰戦争における「二本松最大の激戦地」であった、大壇口においての二本松少年隊の奮戦姿と、我が子の出陣服を仕立てる母の姿を、日本芸術院会員(二本松名誉市民でもあります)橋本堅太郎氏がブロンズで表現したものだそうです。
多くの隊士のご家庭で、お母様が急遽出陣用の隊服を仕立てられたのでしょう。
二本松少年隊は現代の年齢にして、12~17歳の中学生くらいの子供ばかり。
もう少し上の世代の「大人」たちは、近隣の藩の援護(白河藩・三春藩など)の救援に既に駆り出され、二本松城下には、ほぼ年少組しか残されていなかったのです。
隊服の仕立てを巡っては、岡山篤次郎少年(13歳)のエピソードが有名です。
隊服に満遍なく「岡山篤次郎 十三歳」の名札を縫い付けてもらい、母がその理由を尋ねたことろ、
「体が砲弾で吹き飛ばされてバラバラになっても、自分だと分かるように」という考え。
後に、戦死した際にこの言葉通りになるのですが、篤次郎少年のお母様はどのような心境だったのでしょうか。
霞ヶ城全体図と領主の変遷
ここで、改めて「霞ヶ城」の全体図と領主の変遷について。
霞ヶ城は、戦国時代に伊達政宗によって奥州探題を名乗り、この土地を支配していた畠山一族が滅ぼされ、落城。
※二本松畠山氏は、足利幕府の管領を務めた畠山氏の縁戚にあたります。別名、「二本松氏」と呼ばれることも。
その後、蒲生氏郷→上杉景勝→
蒲生秀行・忠郷→幕府領直轄地→加藤嘉明・明成と領主が変遷。
※蒲生氏郷・加藤嘉明共に、豊臣秀吉の子飼いの家臣として知られています。秀吉の伊達政宗に対する「奥州仕置き」の一環として、有力武将が会津に送り込まれ、その領地の一部として二本松も組み入れられていたのですね。
関ヶ原の戦いなどを経た後に、徳川幕府の将軍も三代目家光の頃になって、ようやく丹羽氏が二本松の殿様としてこの地に根を下ろした形です。
城郭全体の中で、箕輪門は言わば「正門」に当たります。
箕輪門をくぐり抜け、しばらく歩くと「三の丸」の
跡地に出ます。
江戸時代、丹羽氏が実際に生活していたのは、三の丸だそうです。
寛永初年(1630年頃)に、この地を収めていた「加藤氏」によって、近代城郭に改修されたとのこと。
霞池と高村智恵子
別記事でもお伝えしたように、高村光太郎の「智恵子抄」で知られている高村智恵子は、二本松の豪商のお嬢さんでした。
その頃の面影を偲ばせるのが、この「藤の木」でしょう。
さらに、霞池の向こうに見えるのは「洗心亭」。
戊辰戦争の折に、霞ヶ城は火を放たれて落城したのですが、その中で唯一、江戸期より残る建造物だそうです。
木造茅葺き・寄棟平屋造の茶亭とありますから、歴代藩主はここで茶を点てて、楽しんだのでしょうか。
当時は、『墨絵の御茶屋』と言われていたそうですよ。
三の丸~本丸
丹羽のお殿様が暮らしていた「三の丸」から、今度は「本丸」を目指します。
ここまでも「山道」の様相を呈していましたが、さらに道は険しくなります。
こちらは、「二本松隊士自尽の地」とありますね。
城を枕にして覚悟を決めた大人たちが、ここで割腹したのでしょう。
尚、「殿はどうしていたのか?」という疑問が湧き上がるかもしれませんが。
家来の説得に応じて、米沢藩に落ち延びて明治まで存命。一度は隠居し領地を没収、謹慎処分を受けたものの、後に許されて子爵に叙されています。
こちらは「少年隊の丘」にある石碑。この近くには、裏門に該当する搦手門の跡地もあります。
少年隊の丘にて。
戦死者の名前と墓標がありました。昭和43年に建立されましたが、それまで口にすることすらはばかられたのでしょう。
「二本松少年隊」という名称も、実は正式名称ではありません。
危急の折、少年たちの熱意に押される形で出陣を命じた大人たちの心情は、どのような心中だったのでしょうか。
どの結末をたどっても、一度「賊軍」のレッテルを貼られてしまうと、何十年も、その呼称に耐え忍ばなければならなかったのでしょう。
生きることすら、容易でなかった。
生き残りの少年たちが、その後ある者は姓を変えながらも、息をひそめるようにして生き延びた事実を思うと、会津藩とは違った悲劇が見えてくるのです。
向こうに見えるのが、「本丸」の跡です。一説によると、「荒城の月」(土井晩翠作詞)を彷彿とさせるのだとか。
石垣は、表面は10面石垣、その内部の裏込め石を爪、また、蒲生氏郷が築かせた「旧石垣」も保存されています。
ぐるっと回り込んで石段を登り、天守台に上がります。雪で濡れていて、少し怖かったです。
天守台のすぐ脇にある、城代であった丹羽和左衛門と、安部井又之丞の自尽の碑。
長国公の正室が西軍側についた戸田氏の姫君であったことから、新政府軍も含め、一時は「和解論」も出ていたようです。
ですが、この両名が中心となり、徹底抗戦を呼びかけました。その結果、二本松城下をも巻き込んだ総力戦となったのです。
その責任を取り、両名はこの地にて割腹したと伝えられています。
このとき、相馬藩は仙台藩と共に。そして三春藩はあっさりと西軍に恭順。
それどころか三春藩は新政府軍の先導役を務め、地元民しか知らない間道なども案内し、新政府軍がやすやすと二本松の城下へなだれ込むきっかけを作りました。
この出来事は、その後の二本松と三春の間に、大きな怨恨を残すことになります。
下山~二本松駅にて
この頃になると、時刻は既に夕方に差し掛かっていました。
寒さも厳しくなってきたため、本丸を跡にします。
その途中、「日影の井戸」というものがありました。
何でも、千葉県印西市の「月影《つきかげ》の井」、神奈川県鎌倉市の「星影の井」と並び、「日本の三井」と称されているそうです。
昭和初期までは、「底なし井戸」とも呼ばれ、深さは約16mもあるとのこと。
ご覧のように金網で覆われていますが、湧水量は豊富で大きな井戸のようですから、きっと、昔から城中の人々の生活用水として利用されてきたのでしょう。
そして、帰り道はあっという間に城下に下りてきました。
今回、自分の足で本丸まで登ってきて感じたのは、霞ヶ城は城下町を含め、天然の要害の地だったということ。
帰路の久保丁坂を下りながら、そんなことを考えさせられました。
そして、「玉嶋屋」さんに立ち寄って、「玉羊羹」を購入。詳しいレポは、下記の後半でどうぞ!
二本松駅前には、少年のブロンズ像があります。やはり二本松の武士の子らしく、「刺突」の姿勢なのですね。
ですが、それは美化されるものでもなく、卑下されるものでもなく。
わずか100年余前。二本松の人々にとっては、自分たちの曽祖父母や高祖父母達が実際に経験し、目の当たりにした光景なのです。
#エッセイ
#福島
#二本松
#旅のフォトアルバム
#戊辰戦争
#この街がすき
#二本松少年隊
#丹羽家