泪橋~怨霊(4)
翌朝になると、女童は息を吹き返した。だが、さすがにこのような環境の中で、身重の芳姫を置いてくわけにはいかない。父である山城守は、一旦城から程近い保土原館に芳姫を引き取った。少なくとも、須賀川城よりは安心できるだろう。
それにしても、図書亮もぞっとしたことには変わりがない。元々怪力乱神の話は信じない質なのだが、あの女童は田舎育ちで、歌の上下も知らない無教養の人間である。物の怪が消え去る前に詠じた歌などは、鳴海や虚貝を詠み込むなど、かなり高度な技法が散りばめられていた。この一事からしても、怨霊の正体が三千代姫であるのは、疑う余地もなかった。そのような見事な歌を詠める達人と言えば、自ずと限られる。
三千代姫が恨んでいるのは、為氏のみに対してなのか、それとも和田の衆皆を恨んでいるのか。
明沢の述べた「怨霊」の比喩は、決して大げさではなかった。
それからというもの、怨霊は消え去るどころか、芳姫が宿下がりをしたのを待っていたかのように、為氏の枕元に度々立つようになった。為氏の浅い眠りを妨げるかの如く、その耳元で二人の思い出を語ったり、恨み言を述べていくというのである。
須賀川との戦以来、豪胆さも見せていた為氏だが、さすがにこの怨霊には参ったらしい。ある日、たまたま宿直の当番が巡ってきていた図書亮に、為氏は信じられない話を聞かせた。
「図書亮……。三千代姫は、須賀川に戻る前にお主の家に立ち寄ったそうだな」
それは、以前須賀川城の攻防からの帰り道でも、為氏が口にしていたことだった。
「確かにお立ち寄りになられました。どうも、女人同士で語り合いたいことがあったようです」
図書亮が掛けられたのは、「生まれてくる子供を大切にせよ」という言葉くらいだった。三千代姫に仕えていたりくが身籠ったと知り、その祝辞を述べてくれたのである。あの心優しい姫が、怨霊に化して為氏に仇をなそうとしているというのも、図書亮には信じ難い話だった。
為氏はしばらく言い淀んでいたが、やがて小さな声で呟いた。
「御台の怨霊が告げるには、あの時、御台も身籠っていたと……」
いくら何でも、話が突拍子もなさすぎる。だが、目を伏せて語る為氏の顔は真っ青だった。
「御屋形。怨霊の戯言に惑わされますな。女人の中には、稀に想像が行き過ぎて、子を宿したと勘違いする者もおるそうです」
やはり為氏の隣室で宿直の番に当っていた雅楽守は、ばっさりと断言した。怨霊の妄想ではないかと、雅楽守は一笑に付したのだった。だが、為氏の顔色は回復しない。それを見た雅楽守は一つ溜息をつくと、図書亮に薬湯を持ってくるように命じた。
確かに、為氏の怨霊への恐怖心は、行き過ぎの感も否めない。新しい御台である芳姫が身籠っている今、それに釣られて気弱になっているのではないか。そう思いながら、図書亮は為氏のための薬湯を整え、寝所に戻った。
「御屋形。身に覚えがおありなのですか?」
周りの者に聞こえないように、声を潜めて図書亮は主に尋ねてみた。
為氏と三千代姫の間の子は、結婚以来その気配がなかった。結婚した当初は二人とも子供だったこともあり、周りは主夫婦の生活に対し、比較的寛容だった。だが、結婚から三年も経てば二人とも大人の体になっていたはずである。現に新しい妻である芳姫が懐妊中であるのだから、三千代姫が身籠っていたとしても、何ら不思議ではない。雅楽守のように、必ずしも三千代姫の戯言とは片付けられなかった。
図書亮の問いに対して、為氏は微かに眉根を寄せたのみだった。それだけでは怨霊の言葉が本当なのかは分からない。為氏も連日怨霊に悩まされて、疲れているだけなのだろうか。
「ひとまず、薬湯をお飲みなされませ」
図書亮が持ってきた薬湯を、為氏は素直に飲み干した。だが、このままでは家臣に対して示しもつかないし、為氏自身のためにもならない。
翌朝、夜の勤めを終えて帰宅する前に、図書亮は登城してきた美濃守を捕まえて、この件を報告した。美濃守はいつも通りしかめっ面をして聞くのみだったが、雅楽守のように笑い飛ばすことはなかった。
――帰宅した図書亮は、りくに零さずにはいられなかった。
「御屋形が亡き御台を想う御心は、誠に尊いもの。だが、新しい御台を迎えられて御子も生まれようというときに、怨霊の妄言に振り回されるのは、いかがなものか」
そんな夫を、りくはじっと見つめた。
「妄言?」
そこから先は、さすがに言うのが躊躇われた。
「御屋形が申されるには、怨霊は御屋形の御子を宿していたと、御屋形に告げたそうだ」
思い詰めた女人の妄想ではないか。図書亮は、雅楽守の言葉をそのまま伝えた。だが、りくは首を横に振った。
「亡き御台さまがお子を宿していたのは、まことだと存じます」
図書亮は思わず、りくの顔をまじまじと見つめた。そんな図書亮に構わずに、りくは思いもよらない言葉を告げた。
「姫が我が家にお立ち寄りになられたときに、私に仰ったのです。『我が身に宿っている和子と、そなたらの子とが乳兄弟になれたら、どれほど良かったか』、と」
りくの告白を耳にした刹那、血の気が引いた。全身に震えが走る。思わずりくの肩を掴み、強く揺さぶった。
「お前、どうしてそれを……」
詰りかけた図書亮を、りくは押し留めた。
「申し上げられるわけがないでしょう。あの時、美濃守さまや伯父上を始めとする和田の方々は、どうあっても姫を離縁されるおつもりでした。仮に姫が須賀川へ戻られて御子をお産みになられたとしても、きっと治部大輔殿はその御子の命を奪われたに違いありません。姫は最初から御子共々、命を捨てられるお覚悟だったのです」
涙を流しながら訴える妻の告白に、図書亮は呆然とした。りくの言う通りだとすれば、姫が怨霊となるのも頷ける。和田と須賀川の板挟みになり、子が宿ったことを告げられないまま離縁された。夫である為氏にすら、告げられずにいたのかもしれない。あの時、為氏も辛かっただろうが、三千代姫の苦悩は想像を遥かに超えるものだったに違いない。
夫に懐妊を告げることすら出来ず、黙って和田を去った姫。その心中を知らぬまま、かつての夫が新しい妻を迎え、初めての子が出来ると浮かれているのであれば、三千代姫が怨霊となっても、何ら不思議ではなかった。
「せめて図書亮さまは、亡き姫のお言葉を信じなさいませ。そうでなければ、あまりにも姫がお気の毒というものです」
りくに言われるまでもなく、図書亮はその言い分を信じるしかなかった。
契しもみとせ鳴海のうつせ貝身を捨るこそうらみなりけれ
霊が再三詠じたあの歌は、素直に解釈すれば「三年も共に過ごしたのに、今、自分の身は現世にない。体を捨てたのが恨めしい」という意味である。それだけでも涙をそそられるが、りくの告白を聞いた後では、また別の意味が加わってくる。
自分と生まれてくるはずだった我が子を犠牲にしたことすら、新しい妻子の為に忘れようとしているのか。一緒に過ごした年月は、何だったのか。むしろこちらの方が、姫の自然な心情ではないだろうか。
©k.maru027.2023
>「怨霊(5)」へ続く