【鬼と天狗】第三章 常州騒乱~討伐(5)
愿蔵の言葉に、鳴海の何かが切れた。同時に、ぷつり、と脇から音がした。成渡が鯉口を切って抜刀しようとしている。その手を、鳴海は上から押さえた。成渡の方を見ずに、鳴海は闇に向かって語りかけた。
「――民の撫育。それこそ、二本松で育った武士が、幼少の頃より叩き込まれる藩是だ」
静かに告げる鳴海の言葉に、先程の嘲りの声の主が息を呑む気配がする。
「芳之助はお主らに積極的に加わり、数多の無辜の民を傷つけた。主命を下された方は、その藩是に背いた者として芳之助を始末せよと、命じられたのだ」
なぜ自分が死を命じられたのか。芳之助も、鳴海が切腹を命じた時点で、その意味に気付いたはずだった。天狗党に加わったということそのものよりも、本来は守ってやらねばならないはずの無辜の民を数多傷つけてきた事実が、元二本松藩士、藤田芳之助としての罪だった。たとえどのような理由を掲げていたとしても、芳之助が二本松へ戻ることは、決して認められないだろう。
(あの時……)
鳴海は、臍を噛む思いだった。二年前、芳之助が何処ともなく黙って姿を消していれば、ただの脱藩者として処理できたはずだった。それが天狗党、よりにもよって田中愿蔵の元へ身を寄せたことが、芳之助の運命を狂わせた。生きるためとは言え、二本松藩士として決して犯してはならない罪を、芳之助は犯してしまった。
鼻を啜り上げる音が、複数聞こえた。一つは間違いなく、清吉のものだろう。今ひとつは、鳴海の背後にいる大島成渡。そして残りは――。
「鳴海様。お言葉はごもっともです。ですが、どうぞ、何卒……!」
清吉の涙ながらの懇願に、鳴海は沈黙を守り続けた。
やがて、清吉はくるりと背を向けた。
「――お前も行くのか?」
成渡が、ようやく小声を発した。せめて、清吉だけは助けてやりたい。成渡の願いは、鳴海にもひしひしと伝わってきた。だが、清吉は悲しげな笑みを向けただけだった。
「あっしは嬶も子も持つことができずにいた身ですが、芳之助様に拾って頂き、今まで生きてきたようなものです。芳之助さまが地獄巡りをしたいと仰るならば、それにお供しようかと思います」
その言葉に、成渡は黙り込んだ。が、対岸で再び芳之助の動く気配がした。
「鳴海殿。今更二君に仕えるわけには参らぬ故、そちらには行かぬ。だが……」
しばし、間があった。
「二本松には、我が妻女がまだいるはずだ。あの者の命だけは、救ってもらえぬか。厚かましいのは、承知の上だが」
思いがけない申し出だった。鳴海も藤田道場には何度か足を運んだことがあるため、芳之助に妻がいるのは知っていた。芳之助の脱藩後、彼女の身についての詳細は不明だが、欠落人としての届出がなかったのは、確かだった。
「あの執念深い丹波殿のことだ。丹波殿の気紛れにより、我が妻の処刑を命じても不思議ではなかろう」
その言葉には、侮蔑の色が込められていた。長年丹波と付き合いのある鳴海も、芳之助の見立てには内心同意できるのが、また腹立たしく物悲しい。
「――妻の命を救えるのならば、拙者が二本松に縁があったことそのものを、なかったことにしても良い」
穏やかに告げる芳之助の言葉を、鳴海は黙って受け止め続けた。確かに、二本松家中の記録から「藤田芳之助」という者が消えてしまえば、それにまつわる縁者も、最初からいなかったことになる。さらに芳之助は、言葉を続けた。
「元を正せば、拙者が祖父の名に拘り過ぎたのも、我が妻を不幸にした源であったのかもしれぬ。であれば、藤田芳之助という人物が二本松に生きた記録そのものを消してしまうのが、向後のためにも手っ取り早かろう」
その後に続く「二本松のためにも」という言葉を、辛うじて飲み込む気配が感じられた。田中愿蔵も聞き耳を立てているであろうこの場で、そこまで言うことはためらわれたのだろう。
「――確実な保証は、致しかねるぞ」
ようやく、鳴海は言葉を振り絞った。
「番頭となられた鳴海殿ならば、やり遂げられるであろう」
わずかに笑う気配を漂わせて、芳之助がこちらに背を向けた。川を挟んでいるため、暗闇の中、鳴海や成渡が追っていくことはできない。清吉が、少し頭を下げて水音を立てないように気を配りながら対岸へ戻っていくのを、黙って見送ることしかできなかった。
――どれほどの時間が経ったのだろう。成渡に袖を引かれて、鳴海はようやく我に返った。
「普段通りにお振る舞いなさいませ。戸祭殿が、こちらを伺っております」
成渡の耳元で囁く声に、鳴海は陣屋の方から漂ってくる気配を感じ取ろうとした。夜気を入れるためか、いつの間にか開け放たれていた陣屋の雨戸の向こうでは、確かに、戸祭が部下らと共に酒を酌み交わしている。だが、時折ちらちらと鋭い視線を投げかけてくるのを感じた。
「戻ろう」
鳴海の言葉に、成渡も顔を上げた。その目元は、わずかに赤い。が、酔っている戸祭らが真相に気づく心配はないだろう。
「ご心配をお掛け申した」
陣屋の邸内に戻って鳴海が発した声色は、あまりにも普段通りだった。自分でも嫌になるくらいに、平然と振る舞えている。
「やはり二本松の者でしたかな?」
あくまでもこちらの魂胆を探ろうとするその性根を厭わしく思いながら、鳴海は強いて笑顔を取り繕った。
「かつて逃散した農民故、二度と領内に足を踏み入れることは罷りならぬと説諭し、帰しました」
「ふむ……」
戸祭は、やはりこちらを疑っている。が、鳴海はさらに作り話を重ねた。逃散したものの、あの農民は既にこちらで再婚して根を下ろしている。二本松に残してきた妻子の消息を知りたかっただけだというので、たまたまその妻子を見知っている成渡が消息を伝えてやり、納得して帰っていった……云々。
「天狗の者が脱走してきた……というわけではないのですな?」
その言葉に、ひやりとする。同じ軍の者ではあるが、戸祭が兵を与えた寺門隊は、残忍さでは散切隊といい勝負だという噂を、鳴海は密かに本陣の主から聴き込んでいた。芳之助はともかく、剣とは無縁の清吉など、ひとたまりもないだろう。鳴海は、再びじろりと戸祭を睨みつけた。
「二本松の問題は、二本松の者が処分致す。先程もそう申し伝えたはずだが」
鳴海の微かな怒気を感じ取ったか、戸祭が目を逸した。
「ご無礼を申し上げた」
低声で謝罪を述べる戸祭に鷹揚に肯いてみせると、鳴海は自室へ引き揚げた。
そのまま燭台の明かりを吹き消すと、闇が広がる。これであれば、誰も鳴海の姿を見咎めることはない。その闇に安堵し、鳴海は両腕に顔を埋めた。
>討伐(6)に続く
文/©k.maru027.2023.2024
イラスト/©紫乃森統子.2023.2024(敬称略)