泪橋~鎌倉へ(4)
結局、図書亮の二階堂家退去については、為氏と美濃守が他の者たちを説得してくれた。表向きは「怨霊にまつわる噂の責任を取る」という理由によるものだが、それで噂話をする者たちの溜飲が下がるのならば、易いものだった。
既に鎌倉には新しい屋敷が用意されつつあり、その内装の打ち合わせのために、佐野を始めとする鎌倉からの使者も頻繁に図書亮の家に訪れていた。見慣れぬ者らが出入りしているのだから、これはこれで人々の口の端に上ったようだが、図書亮の心は鎌倉へ飛んでいた。
――鎌倉への出立は、吉日を選んで行われた。須賀川での家財道具は売り払われ、鎌倉までの旅費の足しにした。
「まったく、何のためにりくをそなたに嫁がせたと思っている」
安房守の小言は相変わらずだったが、それでも、美濃守からは内々に事情を打ち明けられたと見える。以前よりも、言葉に含まれる棘は少なかった。
そのりくは、鎌倉に移るからというので、真新しい藤色の晴着を身に着けていた。娘のさとと揃いの仕立てであり、背の衣紋には、一色家の家紋である五ツ木瓜一引紋が染め抜かれている。図書亮が命じて仕立てさせたものだが、その衣紋は、りくが箭部家の娘ではなく、一色家の北の方としての身分であることを意味した。
「伯父上。図書亮さまは、足利宗家にも系譜を連ねる御方。その物言いは、無礼でありましょう」
安房守が、目を見開いた。
りくの言い方は、既に貴人のそれである。以前は伯父であり四天王の一人である安房守に、上からの物言いをするなど考えられなかった。りく自身も、これから貴人の妻としての振る舞いを身に着けていくに違いない。
「生意気を言いおって」
愚痴混じりにそう述べる安房守を、傍らで舅の下野守が苦笑しながら見守っていた。
「一色殿。当地にこのような言葉があるのをご存知でしたか?」
首を傾げる図書亮に、下野守が説明してくれた。須賀川には「嫁は木尻から、婿は横座から貰え」という伝承があるのだそうだ。木尻は炉端の末席であり、横座は主人の席のことである。要は嫁は自分の家より家柄が低い家から貰い、婿は逆に家柄が上の家から貰えという意味である。
「兄者は一色殿を箭部の婿として迎えたかったようですが、結局諺通りになりましたな」
下野守の言葉に、図書亮は黙って頭を下げた。確かにこの舅の言う通りかもしれない。だが、六年近くの夫婦生活の中で、既にりくを地方豪族の娘とは思っていなかった。実は頭の回転の早い女人であるし、それなりに教養も備わっている。元々社交的な性格だから、鎌倉に赴いて多くの知識や教養を身に着ければ、上流階級の婦人としてやっていけるだろう。
「りくを娶せて下さったことにつきましては、心より感謝しております」
図書亮は、素直に礼を述べた。近くで孫娘の成長を見られないのは、下野守にとって心残りかもしれない。だが、下野守は笑ってみせただけだった。
「さとが嫁に行くときには、たとえ鎌倉でも寿ぎに参りましょう」
さとはまだ幼児だというのに、気の早い話である。だが、図書亮もこの六年で大きく身の振り方が変わった。きっと、さとを嫁に出す日もあっという間にやってくるに違いない。
そして、そっぽを向いている兄を見て、下野守が図書亮に囁いた。
「あれでも、兄者はご自身とは真逆のお主の気性を、大層気に入っておった。りくやさとを大切にしているところもな」
どうも下野守の言葉からすると、安房守はりくやさとを連れて鎌倉に行ってしまう図書亮に対して、拗ねているようだ。弟の下野守が言うのならば、間違いがないだろう。常に笑顔を浮かべながらも得体が掴めなかった一族の長に対して、久しぶりに親愛の情が湧いた。
そこへやって来たのは、為氏と美濃守だった。わざわざ図書亮を見送るために、城下に出てきたらしい。
「御屋形。また城を抜け出してこられたのですか」
安房守の咎めもどこ吹く風とばかりに、為氏は笑ってみせた。
「美濃守がついておるのだ。お忍びではないぞ」
確かに美濃守が側についていれば、為氏に怖いものはないだろう。為氏はどの家臣とも上手くやっているが、とりわけ美濃守とは、人には見えない絆で結ばれている。美濃守は為氏が幼少の頃より養育し、その熱意故に、主を傷つけることもあった。だが、それでもその痛みを乗り越えて、岩瀬二階堂家の主と宿老として手を携えて須賀川を支配していくのだろう。
そして己も、この二人や二階堂家の人々を、外から支えていこうと思う。二人を始めとして、二階堂家の中で学んだものは、これから先、図書亮が新しい鎌倉府の面々と渡り合っていく上で、大いに役立つに違いない。
「宇津峰の山も、これで見納めだな」
図書亮の言葉に、りくが頷いた。ようやく萌黄色に染まり始めた宇津峰山に対し、前方には、峰の頂きが雪に覆われた那須の山々がある。
「鎌倉で落ち着いたら、たまには海の物でも御屋形に送ってくれ」
美濃守が、脇から言い添えた。須賀川に下向してきたために、滅多に海の物を口にすることがなくなった為氏のために、少しでも鎌倉の物を味わってほしいという彼なりの配慮だろう。
「うちの家人に、最上の物を見繕わせます」
図書亮も、笑顔で美濃守に応じた。
「図書亮。今後も、妻や子を大切にせよ」
為氏の言葉に、深々と頭を下げる。新しい妻を迎えても、やはり為氏の言葉は、亡き三千代姫と通じるものがあった。
「鎌倉に着きましたら、御屋形の御子のために、魚と共に定家正筆の伊勢物語や古今集を送りましょう」
為氏がふっと微笑んだ。どうやら、為氏には意図が伝わったらしい。三千代姫が生きていたら、そして二人の子が生きていたのならば、きっと三千代姫は我が子の為に、鎌倉に旅立つ図書亮に対してそれらをねだっただろう。図書亮は、三千代姫が愛して止まなかった伊勢物語や古今集を、姫の墓前に供えてもらうつもりだった。
「一色殿。そろそろ参ろうではないか」
先導役を務めるのは、明沢である。どのように手配したものか、りくやさとには輿が用意されていた。その傍らを守るように、図書亮も馬に跨った。
「皆様。どうか、お達者で――」
さとを抱いたりくが、伯父や父に向かって一礼した。その眦には、涙が浮かんでいる。だが、表情は晴々としていた。
明沢が輿の引き戸を開け、二人を乗せた。引戸が閉められ、駕籠かきが「ようい」と声を掛けて立ち上がる。
図書亮も、馬の腹を軽く蹴った。背後で、慣れ親しんだ須賀川の人々が、手を振っている。上半身を捻り、図書亮は大きく手を振って彼らの見送りに応えた。
――文安七年、春のことだった。
【完】
©k.maru027.2023
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