【鬼と天狗】第三章 常州騒乱~対峙(9)
久慈川河口近くには、海霧とも川霧とも判別できない霧が立ち込めていた。二〇〇あまりの兵を率いた鳴海は、潮の匂いを嗅ぎ取ろうとした。その潮の香りの中に、微かに火薬の匂いが混じっている。留村で、戦闘となっているのだ。留の渡を守備していたのは、六番隊殿の青山伊記だった。
久慈川の川面から、冷たい霧がこちらへ流れてくる。無理もない。もう九月なのだ。常州は二本松より温暖な気候の筈なのだが、それでも、霧の寒さは防ぎようがなかった。
「鳴海殿、冷えますね」
成渡が、ぶるりと身を震わせた。成渡の口調も微かに震えが混じっているが、先程の右門よりは幾分落ち着いていた。
「二本松では、そろそろ稲を刈る時期だからな」
鳴海も、少し笑ってみせた。部下の手前、内心の恐れを悟られてはならない。鳴海の思いを代弁するかのように、馬がブルルと鼻息を鳴らした。そこへやってきたのは、戸祭だった。久慈浜からの急報を受け、石名坂には先日ここで戦った寺門隊を回し、自身は手勢を率いて鳴海の援護に駆けつけたという。
霧の向こうから、兵の声が聞こえてくる。川霧の漂う留村を守っているのは青山だが、苦戦しているのは、ここからでも分かった。が、鳴海も迂闊には動けない。五番組の主な役割は助川方面の守備であり、その目的を果たす前に兵力が損なわれるようなことがあっては、ならないからだ。
鳴海が黙っているので兵らも何も言わないが、焦れている空気がひしひしと伝わってくる。
(堪えろ……)
きりきりと、奥歯を噛みしめる。
「――大貫雷助及び鴨志田長十郎のこと、誠に申し訳ない。二本松の方々の赤心を、このような形で裏切ろうとは……」
低い声で謝罪を述べる戸祭に、鳴海は首を振ってみせた。今は、余分なことを述べて士気に影響を与えてほしくない。
「大谷殿。来ましたな」
戸祭が、久慈川の一点を指した。朝日が昇るにつれて、川霧が徐々に晴れていく。その川霧の中で見えた光景は、二本松藩が押されている光景だった。留の渡しで煙が上がるのが見える。青山らが破れかけている。その事実が、手に取るように分かった。白と黒の集団は一体となり、そのまま竹瓦方面を目指しているように見える。
「鳴海様、このままでは父が……」
側で、右門が震えている。無理もない。六番隊を率いているのは、右門の父なのだ。だが今鳴海が軽卒な動きを見せれば、散切隊だけでなく、那珂湊の方にいる大発勢が攻めてくる可能性がある。
「右門。父君を信じられよ」
鳴海は自身の動揺を押し殺し、そう慰めるのが精一杯だった。今は、十右衛門の報告を待っている最中だ。そこへやってきたのは、旧友だった。
「鳴海殿。湊にいる大発勢には、宇都宮勢が差し向けられた。この分であれば、湊の大発勢は、動けまい。散切の輩に大発勢は合流しないと見た」
知らせを持ってきた三浦十右衛門は、そう告げた。
「そうか」
鳴海は、少し考えた。苦戦してはいるが、与兵衛らは全滅するまで闘うことはするまい。また、少しでも余力を残したい散切隊も、それは同じである。散切隊が引き上げてくるとすれば、やはり――。
「留へ伝令。すぐに留へ参る」
「はっ!」
手働衆の一人である村嶋が、馬の腹を蹴った。
散切隊が目指すのが太田にしろ助川にしろ、この分であれば必ず石名坂を目指す。六番組の者がどれだけついてくるかわからないが、それらの軍勢も吸収した後に、石名坂を守るつもりだった。
攻めるならば、坂の上からの方が有利である。夜戦にもつれ込むと兵の動きが読みづらくなるから、日が落ちる前に雌雄を決しなければならない。
「青山殿をお助けせよ!」
鳴海の向けた采幣の先に、苦戦している青山隊の姿があった。鳴海も素早く采幣を腰に指すと、左手に手綱、右手に長槍を構える。
先日の神勢館の戦いとは比較にならない勢いで、五番組の面々が駆けて行く。
「青山殿、ご無事か!?」
鳴海が怒鳴りながら馬を駆けさせていくと、不意に前方に異様な風体の者が立ち塞がった。その手には、七尺はあろうかという長槍がある。
手槍の柄を握りしめ、鳴海は馬に身を伏せて腹を蹴った。その勢いに乗じて、敵兵の方へ突撃していく。みるみるうちに、恐怖に目を見開き立ち竦んでいる若者が、近づいてきた。すれ違いざまに、膂力に任せ若者の首筋を狙って槍を振るうと、確実に人を斬った手応えが感じられた。同時に、ぱっと生温かい血飛沫が飛んできて、どさりと人の倒れる音が聞こえた。が、顔を拭う暇も惜しく、背後を振り返る。敵方も五番組の出現に不意を突かれたものか、散切隊が神田村の方へ引き上げようとするのが、見えた。今ほどの戦闘で、鳴海の呼吸は大きく乱れている。
「鳴海殿」
追いついてきた権太左衛門も、ぜいぜいと息を切らせており、目が吊り上がっている。そして、鳴海の血塗れの姿に気付いたのか、ぎょっとした様子を見せた。
「大事ない。敵の返り血だ」
鳴海がそう告げると、ほうっと息を吐き出した。
「肝を冷やしました……」
そこへ、戸祭が駆けつけた。
「鳴海殿、散切共は田中内村の方へ逃げ出した。あそこからは石名坂へ抜ける間道がある。一刻も早く、石名坂へ」
「承知した」
鳴海は、そっけなく肯いた。元より、石名坂を敵の手に渡すつもりはない。
「井上殿。与兵衛様や青山殿は?」
鳴海の問に、井上が首を振った。
「青山様も与兵衛様も、お姿は見当たりませぬ。ですが戦死や負傷されたという目撃もございませぬから、太田へ引き返されたのかもしれませんな」
「左様か」
鳴海が駆けつけたときに残っていた兵らは、恐らく逃げ遅れたのだろう。だが、水藩の者に裏切られた与兵衛や青山を責める気には、ならなかった。
「青山殿の手の者らも聞くが良い。我らはこのまま石名坂へ向かう。心ある者は、我らと共に参られよ!」
鳴海の大音声に、「おおー!」という歓声が上がった。指揮官を見失っていた六番組の兵らが、五番組に加わった。
>対峙(10)に続く
文/©k.maru027.2023.2024
イラスト/©紫乃森統子.2023.2024(敬称略)
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