見出し画像

福島にとっての戊辰戦争

3年前に、下記の記事を書きました。

そう、「直違すじかいの紋に誓って」を連載していた頃の話です。

元々「直違の紋~」は、あるきっかけで、二本松少年隊最後の生き残りである、武谷たけや剛介ごうすけを知ったことから生まれた作品でした。
戊辰戦争モノとしては珍しく、「戊辰の悲劇」で終わらせずに、彼の西南戦争への従軍を経て人間としての成長を描くことで、薩摩の人にも●●●●●●受け入れて頂いた作品となりました。


実情は複雑だった「戊辰戦争」

上記の記事でも書いたように、戊辰戦争の実情は複雑でした。「裏切者」として扱われる三春藩も、三春藩にまつわる資料を調べれば、一抹の同情の余地はあるのです。
もっともかく言う私自身も、二本松藩縁の方々と知り合うまでは「三春狐」「三春とは縁組をするな」の言葉を知らなかったくらいですから、現代では積極的にこの言葉を用いない限り、さほど問題化することはないのかもしれません。

差別を助長したのは他ならぬ「歴史家」たち

私も一応「ライター」として書くこともありますので、インパクトのある「記事」の方が、読者に受けやすい……と感じるところはあります。好みで言えば、センセーショナルな記事はあまり好みませんが。
ただ、今まで発表されてきた諸々の書籍などで、「いかに読者受けするか」を意識して書かれたものが多い……とは、感じます。名指しはしませんが、筆者のプロフィールから、某宗教団体の宣伝の一貫として書かれたであろうと判断した作品もありました。

このような手法を使うのは、何も書籍化されて発表された作品だけではありません。Webで見かける意見でも、史実<「インパクト」狙いの発言は割合と多いです。
また、ネット特有の事情として、「フィルターバブル」「エコーチェンバー」に嵌りがちで、「いいね」を多くもらえると、どうしても「自分の歴史観は正しい」と妙な自信を持ち、歴史への謙虚さを見失ってしまうのではないでしょうか。
最近、ある歴史研究者の方とやりとりする機会がありましたが、「実際のところは、当時に行ってみないとわからないことも多い」という点で、意見の一致を見ました。

尊王攘夷運動から尊王倒幕運動へ

戊辰戦争は、1868年。約150年前の出来事です。
ですが、当時の記録は記録を残した時点で、プロパガンダの要素を含んでいたと思うのですね。内乱による外国勢力の介入を阻止しなければ、という思いもあったでしょうし。新政府軍による誇張もかなり含まれていると考えています。
実際に民間史では、戊辰戦争の少し前までは同じ塾で寝食を共にした仲間を救わんと、新政府の人間が旧幕府軍の人間のために助力した、という記録も残されています。

ですが、時の圧力を受け、そうした影の功労者は闇に葬られようとしていた。
さらに、「新政府」が認めたものだけが「正史」的な扱いを受け、それを元に小説やドラマなどが、作られてきたとも言えます。
そうなると、私達が知っている「歴史」は、フィクションの上にフィクションを重ねている可能性もある。

今でもこの信念は変わっていませんが、一昨年から昨年にかけて、戊辰戦争の6~4年前を扱った「鬼と天狗」を書き下ろしました。

その感想ですが……
「尊王攘夷運動→尊王倒幕運動」へ、いつの間にか論調がすり替えられた。その事実を、もう少し丁寧に描こうとする人が現れてもいいのではないかと、私は感じています。

会津は元々勤皇派で、帝に背く意思はなかった

割とスルーされがちなこの部分も、その前の時代から通して俯瞰することで、決して「敗者の言い訳」ではなく、「正当な事実」だったと理解できます。
そして薩摩はともかく、会津や幕府が長州征伐に動いたのは、会津藩が京都守護職の任務に当たっていた時代、長州の過激派が京都周辺で乱暴を働いていたから。
ついでに言えば、水戸藩と長州藩の「成破盟約=同時にコトを起こして政治の流れを変えようという、危ない盟約」も、ばっちり警戒されていました。
この部分を抑えないと、薩長の過激論者●●●●たちがこちらの言い分を理解するのは、難しいのではないでしょうか。

私も史学科出身ではないので、一概には断言できません。ですが、もう少し横断的な見方や、時代を跨いだ考察が書かれた歴史書が欲しいと思うところです。

西軍の一部の人のプライドが多くの悲劇を招いた

そして、もう一つ。
会津は周辺諸藩の意見を容れて「恭順」の姿勢を示していた……というのも、きちんと触れてほしいです。
なぜかこの部分もスルーされがちですが、結果的に「西軍による会津藩の降伏恭順拒否」が、現代にまで残る「数々の怨恨」を招いたと、私は考えています。

しばらく前に地元の博物館で会津からいらっしゃった方々にもお話したことですが、「会津恭順」を西軍が受け入れていれば、奥羽の人々との軋轢はもちろんのこと、現代に渡る「薩摩・長州✕福島との遺恨」、そして地元における軋轢もなかっただろうと、私は考えています。
地域によっては今でもタブーですので、私も知らん顔をしていますが、時折出てくるのですよ。
「薩長との縁組拒否→駆け落ち婚で苦労した」などの話が……。

戊辰戦争における西軍の最大の誤りは、ここにあるのではないでしょうか。
事実、西軍からも「会津恭順を受け入れるべきでは」という意見が出ていたのは、二本松藩とは無関係の「河井継之助伝」を読んだ際に、確認を取っています。

プロパガンダとしての歴史の利用は誰かを傷つける

そして、歴史が人を呼び込む「コンテンツ」として利用できるのは、私も重々承知しています。
ただ、それもやり方を誤ると、結局は誰かを傷つけるのではないでしょうか。

私も薩摩の某有名人の子孫から一方的に晒し者にされた経験がありますし、身近でも、その方がバイアスに満ちた発信を続けたために、縁を解消したこともあります。
まかり間違えば、結局は、「己の自己顕示欲を満たすために歴史を利用した」ことになってしまう。自戒も含めて、やはりこの点は留意したいところです。

ちなみに私自身は、noteでは案外「かつての宿敵」の地の人とも、親しくさせていただいています。結局は、その人の出自ではなく、人柄で付き合いの是非を判断していますので……。

©k.maru027.2025

#エッセイ
#戊辰戦争
#日本史がすき
#二本松藩
#会津藩

いいなと思ったら応援しよう!

k_maru027
これまで数々のサポートをいただきまして、誠にありがとうございます。 いただきましたサポートは、書籍購入及び地元での取材費に充てさせていただいております。 皆様のご厚情に感謝するとともに、さらに精進していく所存でございます。

この記事が参加している募集