気まぐれ創作裏話⑬~約1.5kg
年末、脱稿以来ほったらかしになっていた「鬼と天狗」のメモ(もとい執筆ノート)や、原稿を書く前に作っていたマインドマップについて、整理しました。
やはりあれだけの長編(約45万字)をメモなしやノープロットで書けるわけはなく、実際の執筆のときには、先に各種資料からメモを作成→マインドマップにアウトプットして、時系列などを整理しながら(執筆にかかった時間の8~9割は、これらの作業時間だったはず)、最終的に「小説」にしていたわけです。
「Webライターなのに?」と不思議に思われるかもしれませんが、私の場合、こうした「メモ」に関しては、意外と手書きで作成します。
軽い腱鞘炎持ちではあるのですが、やはり手を動かした方が頭の働きには良いようで、本職の案件でも「執筆ノート」を作ることは、珍しくありません。
さて、これらの「創作メモ」とプリントアウトした「マインドマップ」を合わせた「総重量」。
何と、約1.5キロにもなりました^^;
一応ペーパーファスナーで閉じてありますが、ペーパーファスナー分を差し引いても、これだけの重量がありました。
メモ類を重ねた厚みは、約7センチ。
中には使わなかったデータもありましたが(水戸藩関連の情報など)、最終的にパソコンで本文を書き起こしているにせよ、メモだけでも結構なボリュームになったなあ……と感じます。
特に第2章(尊攘の波濤)や第3章(常州騒乱)は、二本松藩だけでなく政局の動きも同時並行で追わないと、チープな勧善懲悪モノで終わってしまう可能性が高かったものですから、二本松藩とは関係ない部分まで、結構政局の動向も調べていた気がします。
ちなみに、一番最初はこんなざっくりとしたプロット(大プロット)から始まりました。
第一章 義士
「第1章 義士(文久2年)」~「小原田騒動」のためのマインドマップ。
第1章は最初の頃はともかく、「小原田騒動」の頃から、細かくマインドマップを作成するようになりました。
鳴海が唐突に詰番に出世したとは言っても、この頃はまだ藩の中ではさほど藩政に携われていなかったはずでした。
ですが、笠間様との出会いをきっかけとして、「部下との交流を契機として、武官の身でありながら民政にも関心を持っていた」という発想が生まれ、その発想を元に話を膨らませていった次第です。
※笠間様の高祖父である市之進様は、戊辰戦争のあった慶応4年の時点では糠沢組代官。元治元年の天狗党征伐の時点では、鳴海が率いる5番組の一員でした。
後は、第一章・第二章では「文久の改革」の内容についても、ときどき触れています。参勤交代の廃止などはその一例ですが、小原田騒動も実際に起こった出来事でした。
次章の「守山藩」で取り上げた「大善寺村の農民が二本松藩陣屋に越訴した」というのも史実通りで、開港や文久の改革、そして幕命による諸大名の上京などで街道筋の往来が活発化し、農民への負担が増加していたのでしょうね。
ですが、街道筋の「寄人馬」や「大助郷」などの制度については、やはり市史をさらっと読んだだけではわからず、また、大島成渡がさっと全員分の馬代を弾き出す場面では、二本松から郡山までの道のり、そして馬代をメモしたものを作って、作中で活用しました^^;
第二章 尊攘の波濤
第2章「尊攘の波濤(文久3年)」~「西の変事」。
この年、二本松藩では江戸警衛・京都警衛を命じられたくらいしか目立った動きはなかったのですが、政局としては下関事件や八月十八日の政変、天誅組の変など大きな動きがあった年で、そうした中央の動きを「御前会議」や「手紙」の中で報告させて、時流を作中に反映させていました。
ちなみに、この第2章で一番苦労したのが、「京都に出張した十右衛門から鳴海への手紙」。先に現代語訳を作り、そこから文語文そして漢文調へ変換と、全て自力で書き出したのは、いい思い出です^^;
あのお手紙のために、わざわざコクヨの「文系用ルーズリーフ」まで購入して、下書きのメモを作っていました。
なお、手紙の中で書かれていることも、芳之助に関する記述を除けば、概ね水戸市史や会津の七年史などの中で登場している史実です。
中島黄山がこのとき丁度京都に行っていたのも、『黄山遺稿』の記述から判明した出来事なんですよ。
また、この第二章では、「経済面」から見た尊攘運動についての解説も、なかなか頭を使いました。全国各地の尊攘派が標榜する「横浜鎖港」に関しては、生糸輸出量が全国トップクラスだった二本松藩でも無視できなかったはずであり、二本松藩執行部が反尊攘派に与する動機としては十分あり得たと私は思います。
この経済面の解説役を担った黄山は、二本松藩の民間人の学者としても有名であり、また、あまりにも有名な(苦笑)「鳴海が宗形善蔵から六〇両の借財をして出陣」のエピソードのために、宗形善蔵を取り上げたのも、印象深いです。
善蔵の営む「請」は、東和町史にあった「三益請」をベースに詳細を考案していますが、今振り返ってみても、善蔵はなかなかの遣り手(苦笑)。
ちなみに、この年の5月にあった「針道大火」も、やはり史実通り(東和町史2に出ていました)でした。
宗形善蔵は、従来あまり取り上げられてこなかった、二本松藩農村部の暮らしの様子を語る上でも、貴重な存在となりました。
第三章 常州争乱
第3章~常州争乱(当初の構想では少し違うサブタイトルでした)。
方針は第2章のときと同じで、番頭(≒藩政執行部)となった鳴海も、政局を追いつつ天狗党討伐を拝命・遠征するのですが、最後まで、二本松側の資料だけでは作話のための素材として到底足りず、水戸市史中巻(5)には、ほぼ全て目を通しました^^;
それでもまだまだ物足りなかったのですが、後から国立国会図書館デジタルコレクションで見つけた日立地方の戦いの資料(『幕末の日立:助川海防城の全貌』(鈴木彰))などで、やっと鳴海らの戦いの全容が判明した次第です。
また、二本松市立図書館にしか現存していないと思われる『水戸の甲子変と二本松藩の義戦』や郡山市立歴史資料館に協力して頂いた、守山藩の『年中日記(文久四甲年歳)』(樫村重之)などの稀覯資料には、今まで二本松側で取り上げられてこなかった情報も含まれており、創作の上で大きなヒントとなりました。
そして、第三章は常州(茨城県)が舞台ですので、Googleマップの他に、図書館から「茨城県道路地図」なども借りて、考察を重ねました。
→広域の戦況を把握するには、Googleマップよりも紙ベースの地図の方が把握しやすい。
それにしても、前代未聞の大洪水の中の出陣なんて、何で二本松側で知られていなかったのか、不思議でなりません^^;
→はっきりとは書かれていませんが、本宮町史や『年中日記』の時系列からして、大洪水の最中に出陣していったのは確実です。
まあ、これら諸々の創作の水源となったのが、写真の「創作メモ(ノート)」やマインドマップだったわけです。
こうして振り返ってみると、話のボリュームもさることながら、やはり「今までほとんど取り上げられてこなかった二本松藩史のパートについて、かなり詳細な情報を取り上げた」。それらの意味において、「鬼と天狗」は、画期的な作品なのかもしれません。