泪橋~怨霊(3)
家へ札を持って帰ると、りくは大層喜んだ。そして、その晩からさとの疳の虫はぴたりと収まった。疳の虫の正体がどのようなものかはわからないが、大した効き目である。
それにしても、明沢の怨霊の話は気になった。翌日、出仕していた黒月与右衛門を捕まえて聞いてみたところ、確かに夜な夜な若い女人の怨霊が出て噂になっているという。
何でも最初に見つけたのは、芳姫お付きの女房だということだった。澄んだ中天に白々とした月が昇る頃、何となく物憂く寝付けない女房が縁側に出て涼んでいたところ、十四歳ほどの年頃の女房がどこからともなく現れたのだという。肌は雪のように真っ白であり、赤い袴を履いており、柳裏の五衣を纏っていた。五衣はさまざまな色の糸の縫い取りがされていて華やかであり、明らかに貴人の装いだった。夜遅くにたった一人で御殿の庭先にいることも奇妙であるし、第一このような女房は、須賀川の城中にいない。年頃の姫といえば現在妊娠中の芳姫だけであるが、山城守はそのような贅沢な着物を身に着けさせなかった。その芳姫は為氏と同じ寝所で寝息を立てながら寝入っているのだから、彼女であるはずがなかった。
やがて、その女人は忽然と消え去ったという。
「もう、三、四度は御殿に姿を現しているのではないか」
与右衛門はそう述べて、首を傾げた。
「それは、幽霊ということか?」
図書亮は、鼻白んだ。明沢がわざわざ「怨霊」というくらいだから、どのような化け物かと思ったのだ。
「須賀川城の裏手には、林も広がっているからな。そこに住む狐狸の類が城内の者を化かそうとして、現れているのではないか?」
一緒に話を聞いていた藤兵衛も、あまり本気にはしていないらしい。だが、与右衛門は首を振った。
「御屋形も千変百怪の類であろうから、特に驚くことはないと申されていた。ただ、あまりにも御台様が怖がるものだから、警護の者を増やして宿直させようということになっているようだ」
男たちは顔を見合わせた。多くの者は須賀川に引っ越してきていて、城にはすぐの距離のところに住んでいる。有事があっても直ちに駆けつけられる距離であるにも関わらず、城に宿直させたいというのは、この物の怪騒動を相当深刻に捉えているということだろう。
早速、図書亮の当番が回ってきた。物の怪は蟇目(鏑矢)の音を恐れるというので、久しぶりに鏑矢を矧いで持参する。また、城内には良い犬が所々に繋がれていた。一方、どこから招かれたものか、陰陽師も控えている。時折犬は吠えるし、このように賑やかな有様では、却って主らの安眠を妨げるのではないかと、図書亮は一人ごちた。
内心馬鹿馬鹿しさを感じつつも、一応は仕事である。図書亮も時折思い出したように蟇目を天に向って射掛けながら、日が昇ったら矢を回収しにいこうと考えていた。
その時である。
どうしたことか、芳姫付きの女童が、顔を青ざめさせてふらふらと庭先に出た。その気配を察して、床に就いていた為氏も芳姫も、起き出してきた。
「……随分と、お幸せそうですこと」
言葉の内容とは裏腹に、声はぞっとするほど恨みの音を帯びていた。思わず悲鳴を上げかける芳姫を、為氏が抱き寄せる。その右手は、護身用の佩刀に手が伸びかけていた。
女童は長い髪を振り乱し、両手で顔を覆いながらも、ほそぼそと、しかし不思議とよく通る声で言葉を続けている。
「父君や母君へ渡された我が品も、全て焼き尽くしてしまわれたのですね。念仏の一遍も上げることなく……」
女童の言葉に、為氏の顔色がさっと変わった。確かに、須賀川の城や街の再建で手一杯で、城下の攻防で死んだ者の供養は和田の者の分しか行われていない。さらに、父母に渡された品というのは、何を意味するか。この女童は芳姫の輿入れに付き従って保土原から来た者であり、須賀川の攻防について知っているはずがなかった。
「あの日は大雨で、雷が激しく鳴っておりました……。岩間の陰で凌いでおりましたが、それも全ては無駄だったこと……。あれほど黄泉への供は不要と申したのに、由比も藤内左衛門も、結局は妾と共に……」
女童の言葉に、その場にいた者全てが凍りついた。丁度、一年ほど前のことになる。聞いている図書亮も、ぞっとして歯の根が合わなくなってきた。女童が語っている内容は、三千代姫の自害の時の様子に違いなかった。
庭先には、いつの間にか大勢の警備の者らが集まってきている。その中には、美濃守の姿もあった。腰に手をやっているものの、物の怪に憑かれただけの哀れな女童を斬るわけにもいかず、顔を青ざめさせて女童の様子を見守っている。
さらに、女童はとんでもない言葉を口にし始めた。
「思ひきや問わば岩間の涙橋ながさら暇くれやさわとは……。限りある心の月の雲晴れて光とともに居る西の空……」
和田の誰も知るはずのない歌を、女童は詠じてみせた。田舎育ちの一介の女童に、咄嗟にこのような歌を詠めるはずがない。暮谷沢という地名が出た途端に、ぐらりと為氏の体が泳いだ。左右に控えていた家来が、咄嗟に為氏の体を支える。どう考えても、この怨霊の正体は三千代姫に違いなかった。
怨霊はさらに一首の歌を詠じた。
「契しもみとせ鳴海のうつせ貝身を捨るこそうらみなりけれ……」
再三詠じると、今宵はひとまず気が済んだのだろうか。不意に女童が崩れ落ち、張り詰めていた空気が緩んだ。だが、女童が崩れる寸前に、ちらりと顔を上げてこちらを見た。瞬時、図書亮と視線が絡み合う。その恨みに満ちた眼差しに、図書亮は、自分もこのまま失神してしまうのではないかと思った。まだ秋の始めでそれほど冷える夜ではないのに、体の震えが止まらない。
天には不気味なほどに、十六夜の月が青白く光輝いていた――。
©k.maru027.2023
>「怨霊(4)」へ続く
この記事が参加している募集
これまで数々のサポートをいただきまして、誠にありがとうございます。 いただきましたサポートは、書籍購入及び地元での取材費に充てさせていただいております。 皆様のご厚情に感謝するとともに、さらに精進していく所存でございます。