すもも氏の「これフェミ」出演によせて:伝統主義的アンチフェミニストの年貢の納め時だ
1月22日の「これフェミ」討論会に、すもも氏が出演するそうです。私は彼のことを全面的に応援する立場で、今回の記事を書きたいと思います。
すもも氏は「あてがえ論者」なのか?
さて、すもも氏はフェミニズム側論客からは「女をあてがえ論者の一人」と見做されているようですが、その見方は本当に正しいのでしょうか。
もちろん、これはフェミニズム側の「プロパガンダ戦略」の性質が強いものです。そもそも「女をあてがえ論」が反フェミニズム的に言って何なのかは、小山晃弘氏のこの記事で述べられています。
この記事の有料部分においては、世界中で「宗教保守」(宗教的な観点からジェンダー保守主義を採る勢力。この記事の無料部分でも詳しく述べられている)だけが人口の再生産に貢献していることに触れ、過度な自由恋愛・性的自由がこの構造を破壊しているがゆえに、それらを否定して「皆婚社会」を取り戻すために訴えられているものと説明されています。
このように、「あてがえ論」は元々から伝統主義的なイデオロギーが入っており、その規範に則る…すなわち日本では「女社員の倍稼いで、妻子を養う甲斐性を持つ」ことができないような人が同調できるようなものではありません。そこで訴えられていることは所詮「昭和期・バブル期のように得られたはずの甲斐性を返せ」というレベルのものです。これは明らかに、冒頭にあるようなすもも氏の主張とは相容れません。
上昇婚志向はなぜ問題視されるのか?
また一部には彼が本物の「あてがえ論者」ではないことを認めつつも、「上昇婚志向を問題にしている時点で主張していることが彼らと何も変わらない」という人までいます。
しかしながら、私もいくつかの記事で述べてきましたが、日本で言う「上昇婚志向」は世界的に言ってもかなり「良く言って特殊」なものです。
これは社会学やジェンダー学においても、山田昌弘氏や宮台真司氏などによって先行議論がなされていたものです。
「女性の上昇婚志向は『生物的雌の本能』であり、自分以下の男をそもそも人間として扱えない」というのは、洋の東西・地球の南北を問わず普遍的なものなのかもしれません。しかし日本においてその「基準」はあまりにも高すぎます。
長らく日本のフェミニズムにおけるテーマが「女性管理職ないし女性政治家の少なさ」であったのも、それにもかかわらず草の根のフェミニストたちが求めていたのは「男性によるノブレス・オブリージュ」であったのも、そうした弱者男性の訴えに対してエリートのフェミニスト論客がかけられる言葉が「パンがなければケーキを云々」くらいしかないのも、「弱者男性を人間として扱えない」ことで説明はつくのです。
また宇野常寛氏・水無田気流氏、さらにやじうまファイタークソえもん氏によれば、日本の女性はエリート・草の根問わず、そもそも自分自身を「人間未満の存在」と規定しているところがあるようです。そんな中でも女性には、その実現がいかに難しいかは別として、「玉の輿」で逆転できるチャンスが、というか「希望」がありました。しかし弱者男性には…というか、「生物的雌でない存在」にはそのチャンスないし希望はありませんでした。
そうした構造が「生物的雌でない存在」にもたらしたものがあります。それは「玉の輿」で逆転できた女性にフォーカスするとわかります。
ちなみに私は、TERF運動やオタクバッシング、男性保育士非難、ゲイの代理出産利用非難などの表面化も、フェミニズムの第4波への移行(つまり、Twitterやはてなにおけるミサンドリーフェミニズム言説の盛り上がり)によって「彼女ら」あるいは「彼女らの内に入ることを潜在的に望む女性たち」の要求が「直接化」したことが大きな要因と考えています。また一般的に、身内の女性の安全に訴えかけるのは、ヘイトスピーチでよく用いられる手法です。例えば日本のネトウヨによる在日韓国・朝鮮人へのヘイトスピーチにおいても、「レイプは韓国の国技」とか「韓国人のアレの長さは何センチ」とかいうのは、メガリアが台頭する10年も前から日本のネット掲示板で言われていたことです。
ここから考えると、皆婚社会自体にも「底辺にならないための競争」という性質があったといえます。これはバブル景気で男性の平均所得がかなり高かった時代、その崩壊により数多の男性が適齢期女性から足切りされていった時代を経て、「草食男子」が台頭するまでの間どんどん強まっていったと思われます。
そうした前提で、弱者男性は「皆婚社会」を取り戻すべきなのでしょうか。あるいは、取り戻すべきだったのでしょうか。このことは反フェミニズムの側からも検証していく必要があります。そして、「弱者男性」が本来訴えていること、なおかつ訴えるべきだったことは、「別に我々を恋愛対象ないし性的対象として見なくてもいいが、『人間として扱って欲しい』のはこっちのほうだ」ということであったはずです。すもも氏にはそのあたりを重点的に主張してくれることを期待します。
「あてがえ論」は余計なことをしてくれた
さて、先程の文では同じ文言をあえて現在形と過去形で並べましたが、これには理由があります。
日本において「マスキュリズム」という思想が実質的に始動したのは、北米でこの思想を学んで日本に持ち帰った久米泰介氏が、関連する書籍の日本語訳を初めて出版した2014年のことです。
これ自体かなり「遅きに失した」ことであるとも思いますが、それ以上に強調しておかなければならないことがあります。
「キモくて金のないオッサン論」・「インセル理論」・「女をあてがえ論」が起こり、伝統主義的フェミニズム批判論が再興したのは、これよりも後のことであるということです。
久米氏は当初から、こうした伝統主義の盛り上がりを危惧していました。それは翌2015年に彼がマスメディアに寄稿した記事(現在は削除されていますが魚拓が残されています)にも現れています。
また私も以下の記事で述べましたが、当時のネット言説でもまだまだ「伝統主義」・「あてがえ論」に依拠しないフェミニズム批判は少なくなかったのです。私はこの8年間で「あてがえ論」はこうした議論を後退させてしまったという認識を持っています。
伝統主義でない方向からのフェミニズム批判は、長らくフェミニズム側からは伝統主義と同じものとして、また伝統主義的反フェミニズム側からはフェミニズムと同じものとして扱われてきました。そのほうが両者にとって「叩きやすい構図」になるからと思われますが、それで“男”と“女”の間で「本当に対立している利害」は可視化できるのでしょうか。
すもも氏の別ツイートから言葉を借りれば、彼ら伝統主義的アンチフェミニストは「わきまえている女ならぜひぜひ養いたい」だけの存在です。しかし今や、反フェミニズムには「妻子を養いたくない・養えない」人も少なくありません。
「これからのフェミニズム」を語るうえで、これだけは言っておきたい
我々が最も憂慮すべきシナリオは、もちろん「女性が他責的なまま社会の主導権を握ること」ではあるのですが、それがどのように「握られる」のかも重要です。私は「伝統主義との結託」によって握られるのが一番あり得るシナリオだと思っています。
これまで繰り返し述べてきたように、伝統主義的反フェミニズムが本質的に反対している部分は、あくまでも「女性の地位向上と社会進出が、若者(そのオピニオンリーダーから見た“若者”であって、最年長は実質的に団塊ジュニア世代)の非婚化と少子化を進めていること」の一点に尽きます。
しかしこの記事で述べた通り、こんにちのフェミニズムは必ずしも女性の地位向上や社会進出、あるいは性役割規範の解体が目標にはなっていません。すなわち、フェミニズムの総意としてこれらを「あきらめて」しまえば、伝統主義と主張していることは何ら変わらなくなってしまうと思われます。実際、前半で述べた「TERF運動やオタクバッシング、男性保育士非難、ゲイの代理出産利用非難などの表面化」では、(オタクバッシングのみ同情的な人もいましたが)基本的に伝統主義は「フェミニズム側」につきました。
そして、「これからのフェミニズム」はどうなっていくと私は考えるか。これは私の記事ではありませんが、少なくとも引用部分とは相違ない認識です。
伝統的性観念ないし家族観や皆婚社会を取り戻すという意味でフェミニズムに反発しているアンチフェミニストの皆さん。心配しなくてもそれは「家庭を重視する側のフェミニスト達」が取り戻してくれるでしょう。そんな社会になるくらいだったらどんどん非婚化と少子化が進んで滅んでしまったほうが100倍マシだと私は思いますけどね!!