クリッツァー氏の男性運動に対する誤解について
最近多忙になり記事の筆が進まなくなってきていますが、遅ればせながら私もこの記事のことについて述べたいと思います。
弱者男性論者は、「自分には経済的能力がなく、またコミュニケーション能力にも欠けており外見的な魅力がないから、ガールフレンドや妻を得ることができない」と自己認識したうえで、異性のパートナーがいないことで生じる孤独感や承認の欠如などのつらさを訴えている。
弱者男性論の特徴のひとつは、自分たちのつらさが世間から無視されているという点を強調することにある。彼らは、「左翼」や「リベラル」は女性や性的マイノリティ、外国人や子どもや動物などわかりやすい弱者には配慮する一方で、健常な成人男性が抱えている苦しみのことには気にもかけない、と指摘する。
また、弱者男性論者たちは「かわいそうランキング」や「お気持ち」という言葉を好んで用いる。リベラルが女性やマイノリティのことを気にかけるのは、マジョリティの男性よりも彼女たちのほうが「かわいそう」という感情を他人から惹き起こすことができるためであり、リベラルたちは口ではどんな理論的な言おうともほんとうは不合理な「お気持ち」にしたがって救済や配慮の対象を恣意的に選択している、と彼らは主張する。
もうね、はぁ?と言わざるを得ません。「異性のパートナーがいないことで生じる孤独感や承認の欠如などのつらさを訴えている」ことになっている話については後で考察しますが、まず前提として、なぜ左派やリベラル思想の中でもとりわけフェミニズムに批判が集まるのかを理解できていないと思えます。
そもそも「かわいそうランキング」は弱者内における救済されやすさの序列を示しているもので、その弱者性がわかりやすかろうがわかりやすくなかろうが関係ないんです。で、(生物的には男の)性的マイノリティ、外国人や子どもや動物よりも、それらの弱者属性を一切有さない女性のほうが序列が上になっている、というのが「かわいそうランキング」や「お気持ち」論の問題提起だったのです(反論もあるかもしれませんが、純理論的に演繹していくとそうなります。関連する発言として大胡田誠氏の「障がい者差別に比べれば、女性差別なんて生っちょろい」があります)。その意味で言っても「健常な成人男性が抱えている苦しみ」というのは、かなり異なります。
弱者男性論の場合は、女性に対する「憎悪」を煽りたてることになりがちだ。そのため、弱者男性論に影響を受けた男性たちが、SNSなどのネット上や学校や職場などの実社会において女性に対してハラスメントや加害行為をおこなってしまうおそれは充分にあるだろう。これは、きわめて大きな副作用の一つだ。
「弱者男性」と名乗る人たちに、そんなことが出来る力は一切ありません。もしあると自覚しているのだとしたら「弱者」なんて名乗るはずはないです。実力行使に出て自力救済すればいいのですから。フェミニストらによれば、セクハラは犯罪にならないしその他の性犯罪についても司法は甘く裁くらしいので、弱者でない男性にとってはさぞかしたやすいことなのでしょう。
さらに、女性という属性に統計的・平均的に備わっている、男性にとって都合が悪かったり不利益となる特徴ばかりを取り上げて強調する弱者男性論は、それに触れる男性たち自身にとっても有害なものとなり得る。憎悪という感情は、それを向けられる対象でなく、憎悪を抱いている本人をも傷付けてしまうものだ。
弱者男性論ばかりを読んできた男性は、自分が実生活で関わる生身の女性たちに対しても、「こいつは上昇婚志向を持っており、年収の低い男性には目もくれない、強欲で自己中心的な人間なのだ」という風に偏見の目を向けるようになってしまうかもしれない。
「女性」という属性に対して憎悪を抱いている人が、目の前にいる女性をひとりの人間として対等に扱い、健全で有意義な友情関係や恋愛関係を築くことは困難だ。とくに若いうちから弱者男性論にハマってしまった男性は、女性と豊かな関係を築いてさまざまな経験をするチャンスを、自らフイにしてしまうことになりかねない。
これもあまり理解できません。我々は十分に傷付いてきました。だからこそ憎悪を抱くのであり、これ以上傷付くなどということはありません。そもそも弱者男性論が「男性にとって都合が悪かったり不利益となる特徴ばかりを取り上げて強調する」必要があるのは、それを今まで、女性はもちろんですが「弱者でない男性」も、そして当の弱者男性たち自身も、誰もが無視してきた経緯があるからです。
また我々は、女性たちと「健全で有意義な友情関係や恋愛関係を築く」必要は全くないと思っています。そのほうが比較的自由に生きられるというのが我々の基本指針ですから。
いかにして弱者男性論は「非モテ男性」のものになったか?
ただ、現状として(私としてはここ数か月でかなり弱体化したと思うのですが)そういうインセルやKKOに弱者男性論が牛耳られているというのは否定できない事実であると思います。だからこそクリッツァー氏のような批判が出てくるわけです。
これにはフェミニズム側、反フェミニズム側双方に思惑があったと考えられます。フェミニズム側にとってはそういうことにしたほうが批判し、あるいは叩き、またあるいは潰しやすい構図になるからなのでしょうが、反フェミニズム側の思惑とは何のことでしょうか。
それはフェミニズム批判というものが長らく「家族観の解体によって非婚少子化が進む」という方向であったことと深い関係があります。若い非モテを煽動することで、この方向からの反フェミニズム思想(ジェンダー保守主義)を次代につなげようとしたものと考えられるのです。これからの記事でも詳しく述べたいと思いますが、だからこそジェンダー保守派の思想は、マスキュリズムやMGTOW思想においては棄却されなければならないのです。
制度的男性差別への軽視
先述したように、この社会には女性差別がいまだに存在している。女性に対する差別は、制度に関わるものであることが多い。つらさの原因が制度的なものである場合には、個人でどう対応してもつらさは解消しきれない代わりに、制度を変えることでつらさの原因に根本から対処することができる。たとえば、入試のルールを公正にする、採用や昇進の際に男女で差別をおこなわないといった対応が考えられるだろう。
女性に比べると、男性のつらさは制度的なものというよりも実存的なものである側面が強い。たしかに男性のつらさのなかにも、再分配を手厚くするなど制度によって軽減できる種類のものもあるだろう。しかし、女性やパートナーがいないことによる孤独や承認の問題は、少なくとも近代的なルールを前提するならば、制度をどう変えても対処することは難しい。個々人が自分の人生に向きあいながら対応せざるを得ないものだ。
これはokoo20氏の記事でも触れられていますが、明らかなミスリードだと思えるものです。制度的男性差別などない、と言いたげですが、我々はその存在を思い知らされています。ただもちろん、この分野は「非モテ男性」であっても関心を持ちづらいものと思われます。彼らとてその不利益の「当事者」という自覚を持っている人は少ないでしょうから。だからこそ我々も「当事者目線で」主張していく必要があるのではないか、そうも思います。