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書道のお稽古はじめます。

森下典子先生の「日々是好日」が一番好きな本である。
この本を読んでお茶のお稽古をしてみたいと考えたが、私には嘔吐恐怖症があるため、人前で和菓子を食べることやお茶を飲むことは難しい。
でも、日本の文化を学ぶこと、日本の四季を感じられる習い事をしてみたかった。

駅前から自宅に向かうとき、細い路地裏を通る。
そこに木造1階建ての小さな文化教室があった。
その教室では、書道のほかに俳画や和紙絵、着付けなど和のお稽古をしているようだった。
教室の前の掲示板には、生徒さんがペンで書いたであろう文章が掲示されていた。
駅からの帰り道、毎回その掲示に惹かれていた。
書道は小学校のときに授業でやっただけである。
きれいな字を書く知り合いが何人かいるが、こんなにも素敵な文字が書けるなんて、と羨ましく、憧れていた。
大人になった今、やってみたい、と感じた。

書道のお稽古の見学について問い合わせるのに約1年半かかった。
お稽古の日が平日であったこともあり、仕事をしていた私は躊躇していた。
けれど、今仕事はしていない。
いい機会だ、と自分に言い聞かせた。

見学の日、私は朝から久しぶりに心が踊っていた。
仕事を退職してからほとんど自宅に引きこもり、外出を控えていた。
自宅で過ごしているのに動悸が止まらず、毎日が辛かった。
外で体調が悪くなることを怖がって必要以上に外出しなくなった。
そんなふうに数ヶ月を過ごしていたのに、今日の自分は楽しみという感情で心がいっぱいになっている。
こんなにも自分がわくわくしていることに自然と口元がゆるんだ。
楽しみってこんな感情だったな、と思い出した。
今日はなんだか調子がいいみたいだ。
せっかく人に会うことだし、メイクもしよう。
久しぶりにメイク道具を並べて、いつもよりも丁寧にメイクをした。
最後に唇にリップを塗った時、鏡の中の自分に向かって、にこっと小さく笑いかける自分に嬉しくなった。

気温を確かめるために窓を開けると、日差しは暖かいのに風が冷たいことに驚いた。
あぁ、外はもうこんなにも冷たい風が吹くような季節になっていたのか。
クローゼットから母親から譲り受けた灰色のジャケットを取り出した。
秋になったら着たいな、と肩幅を自分にぴったり合うようにお直ししたものである。
自分にとって少し特別なこのジャケットを、せっかく秋に出かける機会ができたなら、と着ていくことにした。

よし。最後に洗面所の鏡で身なりをチェックしてから外に出た。
日陰は寒いな、と思いながら玄関の鍵をかけ、階段を降りる。
マンションの外に出ると、陽が差し込んだ。
眩しく、暖かい。
久しぶりのおしゃれに、はじめての書道のお稽古。
嬉しくって、楽しみで、気づいたら小走りしていた。

教室に着くと、木の看板に教室の名前が書かれていた。
ピーンポーン……
少しすると、「はーい」と引き戸が開き、中から一人の女性が顔を出した。
挨拶をすると、中に案内される。
玄関のたたきは狭く、いくつかの靴が並べられていた。
上がり框は黒く艶のある木造で、吉野の山奥にある祖母の実家を思い出した。
上がり框にあがり、引き戸を開けるとふわりとあたたかく包まれた気持ちになった。
冷たくなった両耳が、部屋の暖かさにじーんとなる。
その瞬間、ふっと炭の甘い香りを感じた。
部屋の中を見ると、奥にある机の前に座り、硯に墨をゆっくりと磨っている女性がいる。
ほかにも自分の今月の作品を見比べている女性、見本をちらちらと見ながら半紙の上に丁寧に筆を走らせている男性がいた。
先生はたおやかな女性で、とても柔らかい話し方をする人だった。
「これが、教本ね。これに沿って毎月進めていきます。今月はこれが見本です。」と説明をしてくれた。
一通り教室の説明をしてもらうと、「じゃあ、さっそく書いてみましょうか」と笑顔をこちらに向けた。
自信はなかった。
筆なんて20年以上持ったことがないし、普段書く自分の文字も好きではない。
先生は私を空いている椅子に案内すると、ささっと下敷きや筆、墨汁、半紙の準備をした。

ばさっと新聞紙が目の前に広げられた。
先生は、さっさっと4つ折りにすると、筆に墨汁をつけ、すーっと線を引いた。
「これはスイカです。ここに種をたくさん書いてください。穂先は45度ね。」と3つの種を書いた後、私に筆を渡した。
(こんな感じか…?)と筆先を45度に向け、新聞紙の上にゆっくりと置いた。
(な、なんか違うぞ…?)
先生の種はきれいな雫の形をしているのに、私の書いた種はひょろひょろで細いどんぐりみたい。
それになんだか、ガタガタしている。
種を書くのもこんなにも難しいのか。
枠の中いっぱいにたくさんの種を試行錯誤しながら書いた。
それから先生に教わりながら点や線をたくさん書いて練習をした。

「じゃあ、これが半紙ね。」とようやく新聞紙ではなく白い紙に黒い墨をおとすことができる時間がやってきた。
「この4つの漢字をこんなふうに書いてください」と指示があった。
はい、と返事をしながら緊張していた。
見本とにらめっこしながらすっと筆を下ろす。
白い紙にじわっと墨がにじむ。
そこから横にすーっと線を引いた。
(少し墨が多かったか…)
筆を半紙に向かっておろす度に息が止まった。
書き終えると、今まで止まっていた息がふーっと出た。
気がつくと、これまで数ヶ月動悸を繰り返して、ざわめいていた胸の中がとても静かだった。
落ち着いていた。
心地よい緊張となにかぽかぽかとあたたかいもので胸が満たされ、いつも抱えていた不安感や恐怖感は消えていた。

先生が私のはじめての作品をじっくりと見た。
「とてもいいですよ。こことかすごくいいですね。このへんは、こうやって書くともっと良くなりますよ。」と朱色の筆で直しを入れてくれる。
もう一枚書きたい、と素直に感じた。
スッと次の半紙に手が伸びていた。

こんなふうに落ち着いた時間を過ごした私の心の中はもう決まっていた。
書道のお稽古をしたい。
少し薄暗い、和の隠れ家の中で過ごす時間がほしい。
自分の心が静かに感じることのできる時間を過ごしたい。
ほかの人の作品をみて、なんて素敵なんだろう、と感じた自分が好きになった。

そんなわけで私は書道のお稽古をはじめることになったのだった。


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