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肥満論:キューバの境界線──顕わす身体/隠す身体・(付録)ミニスカ論
現代日本の一般の若い女性が、自らそうなりたいと憧れる理想の体型は、概ね全体のシルエットはスレンダー体型で、ウエストは極力細い程よいけれど、バストは、大き過ぎるのは嫌われるとしても、それなりに大きい方が好まれるのに対して、お尻が大き過ぎると、‘下半身でぶ’としてかなり嫌われるようだ。
日本の男性はと言えば、いわゆる‘巨尻’よりも‘巨乳’に目が行く人のほうが多いというのが一般的な傾向。だから、風俗では、概ね全体はスリムであるのに、胸だけはかなり‘巨乳’の、いわゆる‘スリムグラマー’などという体型が好まれるのだと言う。(だから胸にシリコンを挿れた風俗嬢もはびこるわけだ。)
ところが、キューバの男性たちが概ね好む女性は、‘ヒップアップ’した大きなお尻でありながら、余り‘巨乳’ではない体型の持ち主だそうだ。これは、いわば‘スリムグラマー’体型の‘巨尻’バージョンであると言って良い。
五輪において、キューバのバレーボールやビーチバレーボールのチームの女子選手たちには結構このタイプが多く、競技上、ムチムチな下半身は鍛えられているから大きく、胸は邪魔になるからそれ程大きい女性がいないのだと思っていた。
しかしそのような理由より、もしかするとキューバ男性の嗜好が多分にキューバの女性たちの体型の形成に影響を与えているのかも知れないのだ。
いわゆるフェミニストの社会学者・上野千鶴子はこう述べている──
「身体像の形成というのは女の子にとっては他者が、もっとはっきりいうと、男性が与える身体像を内面化していくプロセスといえます。身体像は、自力で自己調達できません。何らかの形で社会が与えるものですけれど、女の場合はそれは非常にはっきりしていて、男性の与える価値によって決まります。」上野千鶴子『スカートの下の劇場──ひとはどうしてパンティにこだわるのか』河出書房新社、162頁。(注)
大尻がもてるのでキューバの女性たちはピタッとした超ミニのスカートをはいて、お尻をモロ、プリプリさせて街を濶歩し男性たちの目をひいているのだそうだ。下記は動画
好まれる体型が、各時代(⇒肥満論:社会的価値観の反映としての体型)だけでなく各地域によって相対的なのだということの一つの例証と言えるだろう。
男性が女性の肉体のどこにエロチックな魅力を感じるのかも、各時代や各地域によって相対的だ。『乳房論』の中で、マリリン・ヤーロムは、次のような興味深い指摘をしている。
「多くの人たちにとって、特に男性にとって女性の乳房は性的なアクセサリーであり、女らしさの輝ける宝冠だ。だが世界的には、乳房は必ずしも性的な意味を持つと見られていない。有史以来、女性が乳房を覆うことなく暮らすアフリカや南太平洋では、西洋のように乳房にエロティックな意味があるとは考えてこなかった。それに、中国では纏足、日本ではうなじ、アフリカやカリブ海諸国では臀部と、西洋文明以外の地域にはエロティックな意味合いを持つものがそれぞれ独自に存在する。だが、共通点はどれも、ちょうどフランスの詩人マラメルの『包み隠すエロティック』という言葉が表すように、性的興奮を間接的にそそる肉体の一部であるということ。」(マリリン・ヤーロム『乳房論──乳房をめぐる欲望の社会史』トレヴィル、平石律子訳、6頁。)
「見えそで見えない」、いわゆる‘チラリズム’という焦らしのテクニックによって男たちの目を釘付けにし彼らを発情させる、ストリッパーたちも、‘エロティシズム’の本質をよく理解しているのだと思う。「包み隠す」という作為によって、妄想が募り‘エロス’が醸成されるということ、換言するなら、「エロスとは発情のための文化的装置(シナリオ)」なのであり、‘発情’とは、自然的な行為ではなく、文化的行為だと言うことができる。(上野千鶴子『発情装置』岩波書店)
この点で興味深いのは、生来毛深いキューバ女性たちの多くが、そのミニスカートのラインにピッタリ沿うようにして見える脚の部分の毛を剃っているのだということ。そして、チラッと見える、ミニスカの中に隠されている脚の毛が生えている身体の部分と剃っている脚の顕われている身体の部分とをはっきりと分けるライン(境界線)にキューバの男性たちはたまらない程そそられ発情し、‘エロス’を感じてしまうのだとか…。(日本テレビの番組企画でキューバのテレビ番組に出演した女優の小林聡美さん談。)
ところで、このいわば‘キューバの境界線’は、作為の上での作為である。ミニスカが身体を包み隠す第一段階目の作為だとすれば、一応、包み隠されているものの、スレスレの所でチラッと見えるように仕組まれた‘キューバの境界線’は第二段階目の作為なのだ。ここに、「衣服」の本質を見ることができる。鷲田清一の「衣服論」を参照しよう。
「結局、衣服は、手練手管を使って人間の身体のなかにある秘密の部分、大事な部分、淫らな部分、あるいは隠しておかなければならない部分をでっち上げて、そしてまたそれに近づくプロセスも、重ね着したり、スリットを入れたり、フリルやレースをつけたりと、ますますゴージャスめいた演出をして、本当に隠されなければならないものに意識が向かないようにする装置なのだということになります。つまり、一言でいうと、『本当に隠されるべきものは何もない』というか、『背後には実は何もない』ということを隠す装置、真に隠されるべき事態を隠しておくために、別の隠されるべきものをでっち上げる装置として、隠蔽というテクニックを中心とする衣服という装置を考えることができるのです。」(鷲田清一「モードの狡知」『顕わすボディ/隠すボディ』ポーラ文化研究所、37頁。)
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‘スカートの下の劇場’(上野千鶴子)ならぬ『ドレスの下の歴史』と題する、下着と身体の社会史的研究において、ベアトリス・ファンタネルが記述するコルセット等の衣装は、まさに身体を過剰に隠すことによってかえって、男性たちの欲情を駆動する文化装置だということがよく判る。
「1840年のコルセットとクリノリン[スカートにふくらみを持たせる枠]をつけた女性は、いかにも何もできないように見える。その姿が不自然であるからこそ、よけいに魅力的に見えたのである。その身体は、フリルとリボンだらけの布地の山に埋もれている。紐で縛り、ホックやボタンをかけられて、彼女は身を委ねることを拒んでいると同時に、すすんで身を任せている。そのような見かけ倒しのかさばった衣装の下には、男たちが期待するような柔らかい白い裸体が隠されているのである。」(ベアトリス・ファンタネル『図説ドレスの下の歴史──女性の衣装と身体の2000年』吉田晴美訳、原書房、55頁)
(注)
実は、上野はこの文章に続けて段落も変えず、こう断定していた。
「男の子の場合には、女によって身体像が与えられることは考えられません。」
ここでは、いわば‘ジェンダーの非対称性’を上野は強調しているわけだが、別の著作や論文においても、‘女性の「身体への疎外’」とともに、‘女性の「美への疎外」’および‘男性の「美からの疎外」’を説き(上野千鶴子「『セクシュアリティの近代を超えて』」『日本のフェミニズム(6)セクシュアリティ』岩波書店、18-21頁)、
持論である‘性愛の非対称性’(『発情装置──エロスのシナリオ』筑摩書房、第一章「性愛、この非対称性なるもの」)や
‘ジェンダーの非対称性’(『差異の政治学』岩波書店)についての理論展開を精力的に行っていた。
ところが、上の引用文のそのすぐ後、段落を変えて、あっさりと「ただ最近は、女性の視線だとか女性の評価によって影響を受ける若い男の子が出てきたようです」と、彼女はその事実を認めてしまった。
しかし、このようなことは最近だけの現象ではなく、若干の文化人類学的な知見があれば、同じ‘フェミニスト’のナオミ・ウルフも『美の陰謀』で指摘しているように、次のような事例をすぐに想起することができる。
「『美』は、女の側がそれを身につけ、男の側は見るだけというものでもない。たとえばナイジェリアのウォーダーベ族は、女が経済権を握り、男の美を追求することに夢中になる部族だ。ウォーダーベの男たちは長時間一緒になって念入りに化粧をし、女が審査するビューティー・コンテストで競い合う。つまり、挑発的なボディペインティングや服装をして、腰を振り、誘惑的な身振り手振りをしてみせるのである。」(『美の陰謀──女たちの見えない敵』曽田和子訳、TBSブリタニカ、17頁。)
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* * *
なお、ネット上でも「ミニスカ論」が読める。学者さんたちのジャーゴン(専門用語)を弄した言説に思わず苦笑してしまうが、ご紹介する。
「見えないように裾を下げようとするにもかかわらず、自然に上がってきてスカートの中身が見えそうになる。何物かを隠そうとする意志と、それに逆らって真理を暴こうとする運動。その緊張感溢れるダイナミズムに知覚弓となって参与する第三者としての私。この三者関係のただ中にこそ、ミニスカへと欲情を固着させるオートポイエーシス装置が構造化されているのである。」(森岡正博「なぜ私はミニスカに欲情するのか」『アディクションと家族』17巻4号、373頁)
「私の欲情装置は、私がそこから決定的に遠ざけられているところの何物かを包むものの姿を、一方において露出させ、他方において無理やり隠すというダイナミズムを見せつけられたときに、自動的に発動する。」(森岡、375頁)
「女性のミニスカは…(中略)…男の快楽刺激を発動させるための単なるトリガーとして利用されたにすぎないのかもしれない。だとすれば、ミニスカへの欲情とは、それを履いている女性自身とはまったく無関係な、男の頭の中の自閉回路であることになる。この意味においては、男は女を道具として利用していると言える。いや、生身の女は実は必要ですらない。」(森岡、375頁)
「森岡は、女性/女体の記号化を通して、己が欲情装置としての『自閉回路』を、まさに『自閉的』に構築する<力>を持っている。」(沼崎一郎「ミニスカートの文化記号学―<男力主義>による男性の差別化と抑圧」 『現代文明学研究』第4号、301頁)
「しかし、現実の社会関係に目を転じ、『生身の女』と<この私>との関係を直視するならば、ミニスカが、男性を差別化する記号として、<この私>の男性性(の欠如?)を逆照射することに気づかざるを得ないのである。」(沼崎、304頁)
「ミニスカートは、女性差別であるばかりでなく、男性差別でもあるのだ。」(沼崎、309頁。)
「ミニスカをまとうことが好きな私は、しかし、一部のイスラム教徒の女性が着用する頭からすっぽり全身を覆う服『ブルカ』も好きだ。男性のまなざしから逃れた身体であることは、どんなに自由だろうかと羨ましく思う。『ブルカ』がイスラム文化の女性差別の象徴のようにいわれることもあるけれど、その問題点は(中略)、『強制されること』にあるのであって、服装自体に問題があるのではない。日本でも、公の場では成人女性は化粧しなくてはならないし、『女らしく』装うことが要求される。それらは、やはり『強制されている』。」(村瀬ひろみ「『性的身体』の現象学──『ミニスカ』からみる消費社会のセクシュアリティ構造」 『現代文明学研究』第5号:357-358頁。)
「 ミニスカと『ブルカ』の間を自由に行き来できないだろうか、と私は夢想する。 」(村瀬、358頁)
「そして、男性たちが『性的身体』を否応なく引き受けることになる日、女性のまなざしから逃走したいと願うときが来るのだろうか。」(村瀬、358頁)
⇒肥満論:序文
⇒肥満論:サイズアクセプタンスの思想
⇒肥満論:モードとしての体型〜グラマーからウルトラスリムへ
⇒肥満論:社会的価値観の反映としての体型
⇒肥満論:社会的価値観の反映としてのウエスト
⇒肥満論:からだに纏(まつ)わるオノマトペ