自分を認めるには-「恋人はアンバー」感想
「ありのままで生きよう」
よく聞くけど、それが出来たら苦労しないよ!と何度叫びかけたか。
ありのまま生きる方法のマニュアルなんてないけど、でも、この映画からはそのヒントを得られた気がします。
あらすじ
同性愛が違法でなくなってから2年後の1995年、アイルランドの田舎町。
とはいえ、この町にはまだまだ同性愛への偏見が根強く、差別も色濃く残っていた。
主人公・エディは軍人の父のもと生まれた高校生。父と同じく軍人になる。それ以外の選択肢を知らない彼は入隊試験に向けて日々トレーニングに励むも、懸垂一回がやっとだ。
彼が通う学校は男女交際に色めき立っていて、同級生の頭の中はキスやセックスのことでいっぱいだ。
性行為は1つのステータスかのような空気の中、エディはアンバーという少女と出会う。誰とも慣れあわず、女らしくない彼女を見たクラスメイトは「あいつはレズだ」と揶揄していた。
一方で、キスも交際も未経験のエディも「ゲイなんじゃないか」と茶化されている。エディは即座に否定し、その辺にいた女子とキスをするものの、その顔は苦痛に満ちていた。
そんな様子を見たアンバーは彼を呼び出し、学校を卒業するまでカップルを演じてやり過ごそうと提案する。拒否したエディに彼女は言い放つ。
「あなたはゲイでしょ」「私はレズ」と。
自分を押し殺す姿に共感
始終、エディの心情に注目しながら見てたんですけど、もう心がぐっちゃぐちゃ。エディと一緒に何度も奥歯を噛み、涙を流しました。
時代も環境もセクシュアリティも異なるエディへこんなにも感情移入したのは、エディが世間一般的な“普通“という枠に無理矢理はまろうとする姿に共感したからなんです。
たとえば、学校でキスすらしたことがないエディに「ホモだ!」とクラスメイトは茶化すんですけど、彼は必死になって否定して、その後クラスメイトの女子とキスするんです(キスやセックスに対する価値の違いにカルチャーショックを受けた)
ただエディは、前々から自分はゲイなんじゃないかって気付き始めていたんです。対象が女性ではなく男性にあることはぼんやりと自覚しているんです。
でもまわりの“普通”と違うこと、まわりからの視線に怯えた彼は「性的指向は変えられる」と自分を押し殺して偽ります。
そんなエディにひどく共感を覚えました。
みんなと違うってこわい。それも、家以外の世界が学校のみという学生時代だと余計に。
本当の自分を出しても「それはおかしい」「間違ってる」と否定される恐怖を想像したら、傷つかないようにまわりと合わせようとしちゃいます。
他人事のように思えないんですよね。
ましてやこの時代・この町では「違法」だと言われるんだから、今以上に圧迫感に襲われてたと思うんです。
そんな時に出会ったアンバーは、自分がレズであることを自認し、レズと疑われてもスルーして、女らしさにとらわれず生きています。
エディは彼女とカップルを演じる内に、堂々としている彼女に居心地の良さを覚え、心を開いていきます。
僅かですが、この2人の日常がすごくいい。 カップルに見えるよう嫌々くっついたり、自転車に乗って一緒に寄り道したり、エディの部屋でお互い別々のことをしたり。 家や学校では息がしにくい2人の自然体な姿がみずみずしくてまぶしい。 (クラスメイトを騙す為に仕方なくキスした場面はあるものの)性的な触れ合いはないのに、恋人以上に恋人に見えました。
「他人なんて関係ない。アンタの人生よ」
確かに2人は好意を抱く相手が同性という意味では同じだけど、やっぱり他人。趣味も価値観も考え方も違う。当たり前だけど、全てが同じ人間なんていない。
ある日、窮屈な街を抜け出し外の世界に触れてから、少しずつ2人にも変化が訪れます。その変化はやがて関係にも影響をもたらしていきます。
よく「人は人、自分は自分」と言うけど、自分で自分を認めるって難しくないですか。
未だに私は、自分を認めるまでにだいぶ時間がかかるタイプだし、そもそも自分について分からない部分もたくさんある。
ただ、この映画を見て、自分を認めるにはまず自分以外が認めないと始まらないんじゃないかって思ったんです。
家族、友達、法律が「それは駄目だ」と否定する中、アンバーだけはありのままのエディを認めていた。
エディにとってアンバーとの時間はギュッと縛られていた心が解放される、救いの時間だった。そして彼女との出会いは、エディが自分を認める第一歩だったようにも思うのです。
アンバーとの出会いを経て「自分は1人じゃない」と救われる一方、セクシュアリティとどう向き合っていくのか、未来への考え方などの違いから「彼女と自分は同じじゃない」と気づき、再びみんなの“普通”に合わせようとするエディ。自然体でいられる喜びを知った反動で、普通という枠の中はより狭く、息苦しいものになっていく。
でも、同じじゃないということは、自分を否定することではないんですよね。
みんなの”普通”とは違う。アンバーとも違う。じゃあ違う自分は間違いなのかと聞かれたら、そんなことはない。
「一人じゃないこと」と「同じじゃないこと」のどちらにも気付くことが、結果として自分を認めることに繋がるんじゃないかと思います。2人が見つけたこたえとラストシーンが、それを表しているようでした。
それに気付くのって、自分以外のなにかに触れることしかない気がするんです。
今作のようにアンバーとの関りや外の世界に触れることはもちろん、人じゃなくても小説や映画、歴史、自然などに触れることで気付けて、自分を認められるんじゃないかって。
そう思うし、そう信じたいのです。
だから私も、色々なものを見ていきたいのかも。
〇〇らしさという呪い
同性愛への差別だけではなく、男らしく・女らしくあれというジェンダー問題にも心臓が痛みました。特に軍人の父をもつエディに対して、心身ともに強さを求められるエディの表情はしんどそうで。それも親から無理強いされてるわけではなくて、それが“当たり前”という空気がしんどい。
先に書いたカルチャーショック同様、見ていて精神的に苦しい場面もあるけど、私だってこの苦しさや生きづらさを作っている一人になっているのかもしれない。偏見や差別してるかもしれない。〇〇らしい、と口にしているかもしれない。
だから、こういうことに鈍感にならないでいたい。
そういった意味で、しんどくても目を逸らしちゃいけないなと感じました。これは自戒も込めて。
*
傷つき、葛藤し、もがきながらも、ありのまま生きることと向き合う姿は、とても普遍的で、青春でした。
「みんな」という言葉に苦手意識をもち、普通と違うケースがあった途端にこわがる私にとっても、アンバーの存在は救いでした。
ただ彼女も、完璧なわけじゃない。性的指向を自認してるけど、それをカミングアウトしてるわけではないし、生きにくさと一緒に生活している。
そんなアンバーも、エディとの出会いをきっかけに変わっていくのです。
ぶつかり合い、受け入れ合い、苦しみを分かち合って抱きしめる。「ソウルメイト」なエディとアンバーがなんだか羨ましくもあり、そして愛おしくてたまりません。
この映画が誰かにとってのアンバーになり、息がしやすくなりますように。
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