ドンロック交差点史跡地区
1968年にベトナム中部ハティンでアメリカによる爆撃で若き10名の軍服を着た奉仕活動の女性が死亡した。
その頃から今は54年の歳月になる。
当時の戦友たちが集い、犠牲になった10人の少女のような若い奉仕活動隊の慰霊式典がささやかに行なわれていた。
ドンロックジャンクションで爆裂火口を埋めている10人の少女のような奉仕活動隊。
ドンロック交差点は、ベトナム中部ハティン県のチュオンソン山脈を通るホーチミン道路にあり、カンロック地区のドンロックタウンの中にあるハティンの国道15Aと州道2号線の交差点だ。
この交差点はベトナム戦争中には重要な交通ポイントのひとつであるため、米軍はベトナム軍の進路を遮断するために多くの爆撃機を集中させていた。
交差点の警備、爆弾の除去、爆撃時の道路の修理を担当する若い奉仕活動の分隊が構成されていた。
大隊4、小隊552(ダークブリッジからチュオンケンまで約2 km、特にダークブリッジから万里の長城までの300メートル)は、17〜24歳の10人の若い女の子で構成されていた。
1968年7月24日の正午、いつものように、彼女たち有志奉仕活動隊は毎日勤務していた。16時30分その日の15発目の爆弾がドンロックに落ちた。 無惨にも爆弾は、女の子が爆弾を避けて隠れたバンカーの口のすぐ隣に落ちた。
全員が非常に若い年齢で亡くなり、そのほとんどは未婚の惜しい若さだった。
慰霊碑の山側にある10人の墓石にはひとりひとりのあどけなさが残る軍服姿の顔写真が置かれていて本当に痛ましい。
この地域や部落で霊的な現象が様々に起き続けていたことで、成仏出来ないでさまよい続けているのではないか、とこれを重く見て近年になり慰霊することが住民の総意となった。
ドンロック交差点は、ここでの米空軍の砲撃でベトナム戦争中にベトナム人民軍の10人の若い女性ボランティアの墓地となり、関連する歴史的遺物として、整備し、慰霊碑も祀られた。
国際的な配慮もしながら墓地と綴るのではなく歴史的遺物、"史跡"と綴ることとした。
歴史的にはベトナムは社会主義国家としてロシアとの軍事同盟を交している国でもあるが、ドンモイ政策を取りながら米国や日本、韓国、台湾、中国など様々な国との経済的な交流を活発に戦後の独立と発展を成し遂げてきた。
ドンロック交差点、そこには、ベトナムが、米国や日本など激しい交戦と無惨な犠牲を繰り広げた国に対して、歴史を静かに収めながら、未来を切り拓く強い姿勢、たくましさを感じるひとつの場所である。
#ドンロック交差点史跡地区
#東城敬貴
#アイアジア
#Aasia
#北海道
#JsecondJapan
#みんなありがとう
#毎日やりきる
#毎日note
#外国人就労者
#外国人就労者24時間相談支援体制