桐生市の生活保護問題
あまりにも酷すぎて言葉も出ない。
生活保護の給付を1日千円とか、1週間で1万円とか、しかも本来の支給額との差額分を、支給済みとして別に保管していたという。
片道200円のバス代を使って、1000円をもらっても、差し引き600円で暮らせということになる。しかも正規の支給をしたことにして差額分を取ってしまうとは、市が詐欺を行ってるようなものだ。更にハローワークで就職活動をしたという証拠文書の提出を毎回求めていた。
第五章 保護の方法 第三一条(生活扶助の方法)に「生活扶助は金銭給付によって行うものとする」が基本である。2項に「生活扶助のための保護金品は、一月分以内を限度として前渡するものとする」というのは、1日、あるいは1週間毎に給付すると解釈して良いものだろうか。
市では、「第二十七条 市町村長は、被保護者に対して、生活の維持、向上その他保護の目的達成に必要な指導又は指示をすることができる。」の条文を基に、指導目的で分割支給とし、また決定額の満額支給をしなかった事は、自立を促すためと答弁してる。
生活保護という日本国民に対する最後のセーフティーネットを、毎日受け取りに来いという。何ともこれが「健康で文化的な生活水準を維持することができる」と誇れることだろうか。社会福祉法第三条で、個人の尊厳の保持を旨としとある。また生活困窮者自立支援法第二条一項には、生活困窮者の尊厳の保持、とある。毎日、就職活動をしてるという証拠を持って、受給者は1,000円の受け取りに来い、というのは「尊厳の保持」といえるのだろうか。
ましてトップの市長が、承知してなかったという答弁をしてる。それでは、トップの耳にも入らずに、これだけのことをした現場職員の処分はどうするつもりなのか。10年以上という長期間に亘りこんな事をしてて、知らなかったで済まされることなのか。代々この手法は現場で受け継がれてきていたのか。
ただこの問題は、市の福祉課だけを責められるものではない。人口構成比の中で占める高齢者比率が上がり、長期間の経済の低迷が続き、市の財政も決して豊かとは思えない。
善意に考えれば、早い自立を促したいと考えたのだろう。責任を福祉課だけに押しつけることなく、市全体の問題として、あらためて考える時期に来たのかもしれない。
また「生活保護」というと、不正受給という問題も想起される。正しく「日本国民」のために使われているのか、貧困ビジネスは全く無かったのか、全国的にはそれらの問題も起きている。
必ず起きる議論が、「正しい貧困」と「正しくない貧困」であり、何を持って正しいと判断できるのか。区切りを設けることで、真に必要とされる「社会的弱者の諦め」が起きる。これは日本国憲法や社会福祉法の設立理念に反することに成る。排除される日本国民を作ってはいけない。
地域福祉の施策や、地域包括ケアシステムの取り組みについて、レポート課題でまとめようと福祉課に行った事がある。自治体としての取り組みを詳細に聞きたかったが、詳しくは各施設に常駐してるケアマネにと紹介された。
ケアマネの職務については十分に承知していて、それとは違う行政として取り組みを知りたかった。もちろん国の方針は既に学んでいたので、国の方針を受けての自治体の取り組みをと聞いたが、やはり聞けなかった。
福祉課は決められたことを実行するのみ。ならば、それを決定し命令したのは、問題になった生活保護を決めたのは誰だ、ということになる。
決して充分な取り組みという印象は受けなかったが、果たして上からの圧力は無かったのか。国や県は理念だけで、実行は地方自治体に押しつけていなかったのか。予算や実行に関しての補助監督は有ったのか、無かったのか。
今回のこの問題は、ある意味、非常に良い勉強になった。第二次世界大戦終結から78年、戦後処理の時代から、先進国入りを果たし、自由主義国家として国民生活の安泰に尽くしてきた。ODAなどで、後進国への援助もしてきたが、地方自治体の福祉施策の実態はこの程度で在ったということだ。桐生市だけで起きたこととは思えない。
次第に強くなっていく「新自由主義」、自分自身も新自由主義(ネオリベラリズム)には賛成派である。その考え方からすると、行き過ぎであり正しい執行方法とは言えないが、だからと一概に責められるものでもないように思える。本来の趣旨とは異なる受給が行われてるという事から、国全体で日本国民に対するセーフティネットを考え直す時期でもある。
日本では人口減が、現実の問題として差し迫ってる。AI の導入により、ヒトの働き方もまた、大きく変わってくるだろう。この大事な時だからこそ、人口の29%を占める65歳以上の高齢者、75歳以上は高齢者人口の半数を超えた現実に対して、向き合う必要がある。これらの事を踏まえれば、高齢者は重要な社会資本として活用すべきではないかと思う。
経験豊かな高齢者という資本を、地域包括ケアシステムの中で、子供の育成や在宅介護・在宅看護など、例え補助であっても活用するべきではないか。時間を掛けて、活用の訓練や内容の拡大を図り、現役世代の負担軽減に活用すべきではないか。
高齢者や社会的弱者は、構成員の中で邪魔者と捉えないで欲しい。
社会学の中で、福祉・医療・教育、そして東日本大震災を経験して、住民の防災なども学ぶ機会を得た。多くの事を学べたが、桐生市の生活保護問題という現実を見ると、国の旗振りや単なる学問の理想論であったのかと思える。
知識だけでは何の役にも立たない。学んだことを積極的に活かす努力が必要だろう。これを契機に住民と市職員で共に、経済活性化と福祉施策に向かうべく努力できるように成って欲しい。
追記
アップして読み直すと、短時間で書いたために高齢者の社会参加に向かってしまった。今回の問題は桐生市在住50代男性で、糖尿病等の慢性疾患があり、自動車保有という移動手段も無く、充分な就職活動が出来ない、職が見つからないという事で受給申請をしたものだ。
年金生活者の受給額は10万円以下も多く、自分も10万以下だが、それでも何とか生活をしている。更に慢性疾患や障害を持つ人はさぞ大変だろうと思う。昨今の経済下では子育て世代も余裕があるとは思えない。
だからこそ、高齢者は単に年金生活者として孤立させるのでは無く、その経験を有する大切な人材として、重要な社会資本として活かすべきでは無いかと思う。
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