母も誰かの”娘”であることを忘れてはいけない。#映画レビュー『母性』
はじめに
私は本という媒体が苦手です。
並行して活字を読むという行為もあまり気が進みません。
にもかかわらず中高一貫して”朝読書”という名の拷問が否応なく存在し、
それに絶えしのぐため購入した本の中に、湊かなえさんの『母性』という作品がありました。
はじめてブックカバーを購入してコソコソと休み時間にも読んでいた覚えがあり、”この本の存在を人に知られたくない”という独占欲というか羞恥心にも似た感情が心のどこかで私を見下ろしていました。
知られたくはない、ではなく”知られてはいけない”かもしれません。
映画『母性』のあらすじ
― 女子高校生の遺体が自宅の庭で発見された。
彼女を発見した少女の母、事故か殺人か自殺か真相は明らかにならないまま
「母の証言」と「娘の証言」を頼りにし一つの事実を見つけ出す。
湊かなえ原作のサスペンスミステリー。
湊かなえさんの特徴として”登場キャラクター全員の視点で描く”という手法があります。
今作品も母と娘それそれの立場になって、見ている我々が真実を決めるという点が醍醐味になっていきます。
個々の実体験がこの作品の印象をかなり大きく変えてしまうため、ぜひこの機会に母と娘という奇妙な関係性について追考してみてください。
女には2種類いる
「娘を愛せない母」と「母に愛されたい娘」という二人が生み出してしまった悲劇、それがこの作品の肝になっています。
娘の放った言葉に
――――女には2種類いる、母と娘です。
という衝撃的な言葉がありました。
立場的に孕んだ人間が”母”、その子が”娘”という意味ではなく、生まれ持った性質が決まっているという意味です。
今作品の場合、こどもを産んだものの娘としての自分の方が居心地がいいと感じる母親が例になります。
だからと言って娘属性が母に向いていないという意味ではなく、
子どもの目線で向き合える”親友”のような関係を構築できる可能性だってあると思います。
ただ極端な話、母と呼ばれる人間の2分の1は”母のふり”をしていることになる。
そんな衝撃的な事実を作品にしたのが、映画『母性』と言えるでしょう。
愛能う(あたう)限りの愛情を注がれてきた”娘”が、自分を犠牲にしてまでその快楽を手放せるわけがないのです。
==ここから作品のネタバレを含みます==
母性という存在を疑う
「体内で私の血や肉を奪いながら成長する生き物にどう愛情を注いだらいいのか。」
作中でこんなニュアンスのセリフがあります。
こう体現されると、一般的に云う”妊娠”という概念を具現化するとこうも生々しく無慈悲な行為なのですよと背筋をなぞられた気分になりました。
自分の健康な体を巣にした異物は、勝手に私を養分にして大きくなっていく。
では偶発的に子供を授かった彼女に、果たして”母性”は存在したのでしょうか?
辞書で母性の意味を調べてみました。
与えてもらう経験しかしてこなかった彼女が、無条件に自分を犠牲にし与える側になれたとは到底思えないような気がします。
子どもを産んだことで時間も自由も捧げた挙句に、娘というポジションを失った彼女に子供を守りたいという特質は存在しなかったと考えざる負えません。
火事のシーンで言い放った「子どもなんて、また産めばいいじゃない」という発言が、いかに彼女の母性が欠如しているか顕著なセリフでした。
娘のことは”代替えの利く便利なお人形”程度で、祖母を喜ばせる道具のひとつでしかなかったということです。
物語の真実は分からない
母親に欠けていた”母性”という性質。
だからと言って娘が死んだ原因は本当に母親なのでしょうか?
―――娘が母の注意を引きたくて自殺を試みたのではないか?
―――娘が注目を浴びたくて虚偽の発言をしたのではないか?
そんなことを考えることでより一層作品の深みにハマっていくのだと思います。
皆さんの中にはある程度”母親像”というものが出来上がっていると思います。
なので今回はあまりフォーカスされることのなかった”娘”という存在や、”母性”について映画を通して私なりに考えてみました。
女には生まれ持った性質として”母”と”娘”のどちらかが備わっている
母性は誰しもが持ち合わせたモノではない
原作者である湊かなえさんが「この作品が書けたら作家を辞めてもいい」と覚悟を持って描いた作品です。
映画を観ることで母と娘という関係性を大きく見つめなおし、禁断ともいえる答えにたどり着くことでしょう。
Filmarksではこの作品の詳しいレビューや考察などを載せております。
よろしければ参考程度にご覧ください。
母も誰かから生まれた”娘”であることを忘れてはいけない。
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