【覇王別姫】さらば、わが愛を見よ。
とんでもない映画に出会ってしまった。
二十数年生きてきて、それなりに映画を観てきたつもりだった。そんな自分でも、人生のベスト映画を塗り替えられるとは思ってもみなかった。
そんなとんでもない映画が、「さらば、わが愛」である。
1993年に公開された中国・香港・台湾合作映画であり、カンヌ国際映画祭パルム・ドール賞を受賞したこの作品が、公開30周年、レスリー・チャン没後20年特別企画として4Kでこの夏に蘇った。
以前より友人から「絶対好きだよ」と言われて見よう見ようと思っていたのだが、なかなか機会がなかった。今回の特別公開は願ってもないタイミングだったのだ。
大まかなあらすじは以下の通り。
とんでもない映画だった。僕は角川シネマで見たのだが、帰りの電車で一番呆けていた自信がある。そして、家に帰ってからあまりの衝撃で玄関から動けなくなったくらいだ。
何がそんなに良かったのか。
圧倒的映像の美
難しい映像技術がどうのこうのではない。圧倒的な画面の美しさに気圧される。
一枚絵としても切り取っても申し分のない美しい画面が3時間にわたり続く。一秒も美しくない時がない。
構図もさることながら光の表現、光の使い方がうまいからそう見えている。
劇団の少年たちに降り注ぐ光、雷の光と月光の対比、土埃の中のライトの光…
効果的に、実に美しい光の使い方だと感じた。
また、全体的にぼんやりと靄がかかったような幻想的な画面が印象的だ。
幻想的な光が多いのは、主人公である蝶衣(レスリー・チャン)が「役と自分が混同している」性質を持っているから、その夢うつつな視点を表現しているのではないかと思う。
愛と憎しみの人間模様
舞台は1920年代中国。
主人公は娼婦だった母親に捨てられ、京劇の少年育成所に入り、小豆と名付けられる。過酷な訓練を受けて折檻なども日常的な育成所の中で、リーダー格である石頭が小豆をかばう。
幼少期のこの石頭がまたいいキャラなんだ。
明るくて快活で正義感も強い。同性でありながら惹かれるのもうなずける少年だ。
石頭と小豆は「覇王別姫」という演目で覇王役と姫役を演じることになり、成長してそれぞれ「段小樓」と「程蝶衣」と名乗るようになる。
程蝶衣
この物語の主人公でもある程蝶衣は幻想とお芝居の中でしか生きられない人だったのだろう。
作中、幼少期から青年期にかけて繰り返し言われていた「役と現実の区別がつかないんです」という言葉がそれを表している。
また、青年期になってすぐのところでデモが起きているのにもかかわらず「先頭の青年は大将役が似合うね」などとのんきな発言もしている。
それもあってか、蝶衣の演じる姫は絶世の美しさだ。
作中で惚れてパトロンとなる袁世凱の気持ちもよく理解できる。人々を魅了してやまない蝶衣は、覇王役である小樓に思いを寄せていた。
思わず吐露された「一生そばにいよう、一生芝居をしよう」という言葉は、小樓に「芝居と私生活を一緒にするな」と一蹴されてしまう。
ここ本当に悲しかった。
そして、小樓は結婚してしまう。
蝶衣は嫉妬を募らせて嫁に冷たく当たったり無視したりするんだけれど、めちゃくちゃ可愛い(かわいい?)。
感情を抑えきれないほどの思い、幼少からの思いは計り知れない。
時代にもまれて、時代が変わっていく中で伝統的な京劇の世界でしか生きられない蝶衣は、四面楚歌になっていく。
唯一自分自身が小樓の隣にいることが出来た舞台でも姫の役を奪われるシーンがあるのだが、そこが個人的には一番きつい。
舞台裏で化粧をしていると、姫役がもう一人現れる。小四(弟子的な存在の子)だ。ちょうどそこに小樓がやってきて、姫役は小四がやると知らされていなかった蝶衣は詰め寄る。小樓は小四から話をするはずだった、というと小四は小樓からした方が良いと煽る。それで憤慨した小樓が「やらない」と言って蝶衣と共に出ていこうとする。誰が止めても振り払っていた小樓だったのに、菊仙(嫁)が出てくると足を止める。
そしてなんやかんや説得されて小樓は舞台へと向かう。
舞台裏、姫と王の声を聴きながら呆然と立ち尽くす蝶衣の背中があまりにも悲しい。そして、歩み寄ろうと何度も努力してきた菊仙が蝶衣の背中に羽織をかける。
「ありがとう姉さん」
といってその羽織を床に落とす蝶衣。
舞台の延長線上である、自分たちのテリトリーである舞台裏ですら結局嫁には勝てないのか、一番になれないのか、とこちらもやるせなくなる辛いシーンだった。
蝶衣の魅力は、その美しさだけではなく気高く不器用なまでに一途だったところだと思う。
段小樓
大人になってからの段小樓がとにかく流されやすい。
1回目の鑑賞時には、「べたぼれする男か!?」と思ったが、2回、3回と回を重ねるごとに小樓の無邪気で子供っぽいところや素直で憎めないところが癖になってくる。
怒ったかと思いきや次の瞬間には笑っていたり、師匠に怒られたらちゃんと反省したり、子供の時に子供らしく振る舞えなかった分大人になってからそうなってしまったんだろうな、と考察も出来る。
かと言えば京劇役者としてのプライドも持ち合わせていて、一時的に第一線を退いていた際には「俺は役者だぞ!」と騒ぐシーンもある。
菊仙(嫁)も蝶衣も、そういうところに母性をくすぐられたんじゃないのかな。
一番人間らしくて、愛嬌のある、自由で気ままな男だった。
男勝りな嫁
この映画にもうひとつ、大きな存在としているのが段小樓の妻である菊仙だ。
菊仙は春を売る職業に就いており、そこの客として来ていた小樓に求婚され、彼と一緒になる為に仕事もやめる。
男勝りで勝気な性格をしているように見えたが、誰よりも千歳だったと思う。そんな菊仙は蝶衣の対だったのではないか。
菊仙は、蝶衣が欲しくてもかなわない小樓の妻の座を手に入れ、京劇の人気役者の嫁として添い遂げていく。
菊仙は蝶衣に歩み寄ろうとするが、蝶衣はそれを拒絶する。そして、子供っぽい嫉妬を見せる蝶衣を見限ろうとするシーンもある。でも、結局弱り切って「お母さん」と縋る蝶衣を抱きしめるシーンで、彼女の母性が色濃く出ていた。
強さと優しさを兼ね備え、人々の言葉にも負けなかった彼女の芯は、小樓にあった。しかし、物語の最後、文化大革命の際に糾弾された小樓は恐怖のあまり、「菊仙など愛していない!」と言ってしまう。
そこで彼女の中の何かが切れたのだろう。
彼女は、結婚式の時に来ていた赤い晴れ着を着て自宅で首を吊ってしまう。
そんな哀しい最期を遂げるのだ。
他にも重要な人物がたくさん
この映画に出てくる人間たちは皆それぞれの思いがあった。
蝶衣の美しさに惚れてしまった京劇を愛する袁氏や、小樓と蝶衣で拾って育てた小四だとか、いろいろな人物が登場して、彼ら一人一人にフォーカスして鑑賞するのも楽しかった。
時代の流れがあまりにも残酷だった
時代の流れにもまれる京劇とその俳優たちを描いた作品である覇王別姫。時代背景も相まってよりその境遇が厳しいものになっていた。
1920年代の中国・北京から始まり、日中戦争が激化した1937年に北京は日本軍の占領下となり、日本軍の前で京劇を披露することにもなる。
日本が敗戦し、北京には中華民国軍(国民党軍)が入ってくる。国民党の軍人たちは観劇態度が劣悪で、それに憤慨した小樓が乱闘騒ぎを起こしてしまう。
戦後は漢奸裁判にかけられ、日本軍の前で京劇を披露したことにより、逮捕されてしまう蝶衣。
蝶衣からしたらその時舞わなければ殺されるかもしれなかったし、どうすりゃよかったんだって感じではある。
色々あって舞台に戻った蝶衣は、労働者を主役とする共産主義思想に戸惑うことになる。そして、自分たちと共に歩んできた小四は共産主義の思想に染まっており、文化大革命を背景に蝶衣たちを陥れてしまう…
文化大革命では堕落を招いたとして京劇は批判され、その弾圧は小樓と蝶衣にももちろん向けられた。
時代の波にもまれて、「そうするしかなかった」のかもしれないが、やるせないものばかりだった。
ラストシーンの考察
ラストシーンは、映画の冒頭にもつながっている。どこかの体育館のような場所で2人でまた姫と大王を演じるというものだ。
リハーサル中、昔と同じように2人で覇王別姫を演じ、子供の頃と同じミスをして微笑み合う。
そして、蝶衣は小樓の腰の剣を抜き、自らの首を切る。虞姫と同じように。
その様子を見て小樓は小さく「小豆」と呟くのだった。
無意識的にはやはり段小樓も蝶衣を愛していたのだろう。
ただそれが恋愛感情であるのか、兄弟愛であるのか、友情であるのかはあいまいで、本人すらわかっていなかった。だからこそ哀しかった。
彼らが再開するまでの空白の11年に思いを馳せる。
社会が落ち着いたころに、ふとしたきっかけで再開して、色んなことがあったけれど、色んなものに巻き込まれたけど、でも結局、俺たちはお芝居に帰って来ちゃったね。なんて笑いあったのかもしれない。
そう思わせる柔らかい空気を彼らから感じたのは僕だけだろうか。
最期は愛する小樓の姫として全うできたのが、蝶衣にとって幸せだったのだろうと、思いを馳せる。