ペパーミント神保町
神保町が好きである。非常に。
多くの文豪が過ごした街だからというのは勿論、この街が湛える独特の哀愁というか、僕の知らない過去の面影だとか、そういうものが特に魅力的に映るのだと思う。
さて、神保町にある学士会館が2024年12月に再開発の為一時休館をするとの情報が入った。歴史ある建物だから仕方がないとはいえ、物寂しいものである。まだ1年ほどの時間はあるが、悠長にしているといつの間にか時は過ぎてしまうものだ。
僕は慌てて学士会館のホームページを開き、宿泊サイトを見る。
案外空きがあり、予約自体はすんなり行うことが出来た。平日の夜、仕事終わりに宿泊することにした。
仕事終わり。
いつもより丁寧に仕事を終わらせ、都営三田線に乗って神保町へ向かう。神保町シアターで何か良い映画があれば見ようと思ったが、生憎僕の琴線に引っかかるものが無かったため、映画は断念することにした。
神保町A9出口を出て信号の向こう側を見ると、1928年に建てられたモダンで重厚な雰囲気を持つその建物がひっそりと建っている。85年の時を閉じ込めたままの様相である。
赤い絨毯の敷かれた入り口から入館し、チェックインの手続きをした。
レストランは何度か利用したことがあったのだが、宿泊するのは初めてだ。学者のようなスーツの男性が数人、たむろしているのを見て僕は妙に緊張した。
案内された4階の1人部屋の扉を開け、閉じ込められた昭和の内装に胸が躍った。高い天井にマッチしたアーチ窓が印象的だった。
ひとまず荷物を置き、部屋の中を見回す。古き良き時代にタイムスリップしてしまったかのような造り。シングルベッドが一つ置いてあり、その横に丸いテーブル。テーブルの上にはお茶セットが置かれていた。部屋の奥のデスクに置かれたランプの形もよかった。
一通り観察してから、僕はすっかり良い気分になった。
ふと見ると、窓の外はすっかり暗くなってしまっている。
腹の虫の声を聴き、僕はいそいそと財布だけ持ってホテルを出ることにした。
神保町は眠るのが早い。書店は大体、19時には閉まってしまう。
今は18時50分。まだかろうじて開いている本屋を軽く冷やかしてから食事にしよう。
すずらん通りの真ん中に位置する東京堂であれば開いているだろうか。店の前を通りかかったが、店内には客が居なかったので気を使って入るのはやめた。
靖国通り沿いであれば書泉がある。ここなら閉店時間に余裕があるだろう。
書泉の品ぞろえはなかなか魅力的だ。他にはない特集などを組んでくれるので、マニアには嬉しい本屋だ。
ちょうど戦場のメリークリスマスの特集をしていたのでじっくり見てしまった。
結局、購入した本は京極夏彦だったので関係はなかったのだが。
書泉を出ると、もう神保町のほとんどの店は眠りについていた。人もあまりいない。ポツポツ立ち並ぶ居酒屋は賑わっているようであるが、それ以外は人の気配はしない。
喫茶店も閉まっているところが多くなってきた。
僕は色々考えた結果、普段ならあまり食べないラーメン屋に入ってみることにした。
油そばの店は、あまり僕に馴染はなかったがラーメンの味はおいしかった。偶にはこういうのも悪くないと思う。また来よう。一人で入れる店が増えた。
腹を満たして店を出ると、開いていた店が殆ど閉まっていた。しかしまだホテルに戻るには何かが物足りない‥‥‥
そう、アルコールである。
居酒屋に一人で入るのは流石に憚られたため、手ごろなお酒を出している場所はないかとうろつくと、ミロンガが開いていた。
ミロンガ・ヌオーバ。昼間は学生や観光客でにぎわっている店内だが、この時間になるとひっそりとしている。
よく来る喫茶店でもあるので、入りやすい。よし、此処にしようと扉に手をかけた。
2023年に移転したミロンガは、相変わらずレトロでお洒落な店内で、タンゴが流れている。
僕はカウンター席を陣取り、並べられたマッチ箱を眺めながら、この店のオリジナルカクテルである「ペパーミント神保町」を注文した。
ペパーミント神保町は、その名の通りペパーミントの香りがする爽やかなカクテルだ。僕はこのカクテルが好きだった。
暖色のランプがぶら下がった店内で見るこの緑色が妙に鮮やかだからである。
カクテルを片手に先程購入した本のページをめくる‥‥‥
キリの良いところまで読んで顔を上げると店内には僕だけになっていた。
閉店時間まではまだ少しあるが、僕は帰り支度を始めた。
代金を支払い、店の外に出る。ぶらりと散歩をしてから帰ろうという気になった。
このあたりの路地には沢山の喫茶店が立ち並んでいる。
元々ミロンガが入っていた建物に、見慣れない看板が付いていた。
「襤褸」。その下には、「喫茶トお酒」と書かれている。
僕は敬愛する画家のSNSでその看板をみていたが、店舗の位置が思いがけない場所だったこともあり、少しだけ驚いた。
開店を楽しみにしながら、その場を後にした。
学士会館に戻り、チェックイン時に貰った入浴剤のことを思い出した。
僕の家の風呂釜は壊れているので到底入れたものではない。湯船に浸かれる機会はこういう時にしかないのだ。
後から新たに建てられたのであろう湯船に湯を張り始めた。
少し時間がかかりそうなので、学士会館の中を見て回ることにした。
赤い絨毯の中を歩きながら、出来るだけ他の宿泊客に遭遇しないように祈る。
立ち入れる場所が限られていたので、小規模な探索となったが、それでも夜の景色が見える談話室だとか、廊下に設置された本棚だとか、硝子戸のついた喫煙室などは僕を十分に満足させてくれた。
湯が沸いていた。久々に体の芯から温まることができる。
入浴剤の粉をまぶすと、湯は緑色に染まった。
僕は先程まで飲んでいたカクテルのことを思い出した。
この湯がペパーミント神保町だとしたら、この中に入る僕は輪切りの檸檬かしら‥‥‥
そんな取り留めのないことを考えながら、一日の幸福を噛み締めた。