音楽と文学の話
突然ベースを始めたくなって練習している。楽器は友人に貰ったものだ。音楽の近くで幼少期を過ごしてきたおかげでそれなりに耳は肥えていると思う。絶対音感があるわけではないが、相対音感はある。音楽を聴いていると自分でもやりたくなってしまうのだ。
今までやってきた楽器をなんとなく羅列してみよう。
ピアノ(9年間習っていたけど今弾けるのはEXILEの「優しい光」と「パイレーツオブカリビアン」と「人生のメリーゴーランド」だけだ)、テナーサックス(4,5年くらいやっていて今もたまに吹くから耳コピで演奏できる)、トランペット(1年くらい、パズーの曲しか吹けない)、ギター(トータル1年くらい、福山雅治の「桜坂」しか弾けない)…
とまあ、なんともまとまりのないメンバーだろう。
そんな感じでサックスとピアノ以外はホワッとしか演奏できない。
ギターはコード進行でしか演奏していなかったので、ベースの1弦ずつ弾いていく奏法がなかなか慣れない。
週3、3時間くらい練習してやっとスタンドバイミーが弾けるようになった。
まだ練習初めて3日くらいしか経ってない割には呑み込みが早いんじゃないだろうか?(笑)
弾きたい曲がある。
東京事変の「能動的3分間」とSuchmosの「STAY TUNE」だ。
僕がベースを弾き始めたいなと思った2曲だ。しかし、ベースラインはかっこいいかわりに死ぬほどムズイ。全然歯が立たなかった。運指が無理。ただでさえ手が小さいので4フレットが届かないのに。むずすぎる。
最終目標と言う事にして、とりあえず今はスタンドバイミーを暗譜で弾けるようにしたい。
バンドマンの友人と、何かを生み出すことの難しさというような話をした。
きっかけはこの間あげた「白いサザンカ」という小説を彼に読んでもらったことから始まる。もともとこの作品の中に出てきた「ロンさん」という人物のビジュアルイメージのモデルということもあって、事後報告をさせてもらった。そこから発展していく。
僕はこの「白いサザンカ」という文章を大量飲酒してほぼ酩酊した状態で書いた。僕はこれを「キマっている状態で書いた文章」だと言った。
芸術家や音楽家が傑作を生むときもこんな感じなんだろうなあとか勝手に想像しながら天才の仲間入りみたいな気になるのがなんとも気持ちいいのだ。
気づいたら作品が出来上がっている。そう言う事が、度々ある。
音楽なんて特に、キメた状態で書くことが多そう、という話をしたら、「それはもうすでに先人がやりすぎているから俺はやらない」と言われた。なるほど、そんなことはとっくの昔に偉人がやっているのか。
既にジミヘンが全部やりつくしているから、俺らがやっても二番煎じになってしまうとも言った。
自由度で言ったら文学のほうが自由なのかもしれない。文体を真似たとしても限度があるが、コード進行には大まかに決まりがある。だからコピーだなんだという話が持ち上がってくるのだろう。
さらに、音楽は感性の割合が大きいが文学はどうにも感性だけでは無理だという話もした。
野生と社会性の間に層があって、そこのどこら辺に属するかはわからないが、音楽は野生寄りで文学は社会性寄りだと思う。
だから、さっきの話で言えば完全にキメた状態(ここでは葉っぱやクスリのことね)では音楽は作れても文学は作れないんだと言った。脳が壊れていたらそもそも文学は成り立たない。
これはあくまでイメージの話であって、僕たちは脳に関する専門的な知識はないし、心理学を勉強したわけでもないことをここに断っておこう。
話の終着点は特になく、なんとなく終わった。
その後彼は、新しく買ったギターの自慢をしてきた。
音楽の世界も一筋縄ではいかないようだ。
そんなことをぽやぽやしながら話すのが僕は好きなのである。