寄付することでもらう、愛。
普段、思い出すこともないくらい、私にとって当たり前になったD×Pへの支援。毎月の「月額サポーター」に登録してから、もういつの間にか2年が経過している。
なぜ、D×Pへの支援を開始したかといえば「なんとなく」な感覚だったなと、改めて思う。
いや、旦那にプレゼンするくらいの想いはあったけれど、なぜD×Pが目に留まったのか、全然思い出せない。
多分、SNSで見かけて「なんとなく」D×PのWebページを見て。
でも、そこには「なんとなく」で放っておけない現状があった。
少し、私自身の話をしよう。
私の両親は3歳で離婚。シングルマザーとして母が姉と私を育ててくれた。
父から逃げるような形で、市の「母子生活支援施設(以下、母子寮)」という所で、家族3人暮らすことになった。
母子寮は寮母先生が常に居て、厳しい方だったのを覚えている。
毎週のように回ってくる共用部分の廊下の掃除当番、居室にはお風呂はなく、共用の小さめの銭湯みたいな感じのお風呂があり、お風呂掃除も当番制だった。
母子寮にはもちろん、男の子を持つシングルマザーの方も入寮していて、男性は居ないけど年が近いの男の子も居たし、子どもながらにお風呂のタイミングが被ることが嫌だった記憶がある。
大人も子どもも門限があり、その時間はなんと21時。
子どもは当たり前の門限かもしれないけど、入寮していた母にとっては大変だったと思う(のちに、寮母先生が退所され、門限は無くなったと認識してるけど)。
私が小5の頃、母の収入が安定したのか、母子寮を出てアパートで暮らすことになった。ただ、その頃の母の収入は12~16万程度で、良く暮らしていけたな、と今は思う。そして、今考えると、その収入でやりくりしていた母を尊敬する。
小6の頃、いじめにあった。
今でも覚えているのは、誕生日の日にいじめっ子たちがわざわざ家まできて「お前なんか、死ね!」って言って、笑って走って逃げていったこと。
そして、一時的に不登校になった。まぁ、結局無理やり学校に行くことにはなるのだけど。
中学ではそのいじめっ子たちと同じ部活になってしまった。
ただ、1学年上に姉が「先輩」として居てくれたことで中1・中2の頃は割りと平和だった。
姉が卒業して中3になった頃、またいじめが始まる。
運動会や歓迎遠足のような行事ごとでは、お昼ご飯を一緒に食べてくれる人が見つからない。土日の部活も、一人でお昼ご飯を食べるのが恥ずかしくて、トイレの個室でお弁当を食べていた。汚いとか、そんなの気にならないくらい、居場所がなかった。
いじめっ子たちに負けたくなくて、勉強だけは頑張っていた。
「塾に行きたい!」と母に言ったこともあったけど、「お金がないから無理」と断られた。それでも学年2位くらいの成績は取れていた。1位になりたかった。
高校では良い友達に恵まれた。
未だに連絡を取る子も中には居て、離れていても、たまにしか連絡を取らなくても、友達だと思える存在が、ようやくできた。
ただ、家族との関係性は悪化する一方で、私が高2のときに親元を離れて生活することになる。
親元を離れて、どこに行ったかというと愛知県の岡崎にある「西居院」というお寺。
(モモコと同時期に寺に居た。モモコ、元気かな。)
このお寺は故・廣中邦充和尚(通称:おじさん)が不登校や非行に走った子ども、DVから逃げる親子などを引き取って、集団生活をするような場所だった。ここでの生活費はおじさんが全部出してくれていた。
みんな、色々な理由で寺に来てるから、まぁそれはそれはクセが強い(私も、ね)。
色んなトラブルもあった。ここは嫌な思い出だから割愛するけど。
おじさんには「お前は名古屋大に行け」って言われていた。
塾代も毎月10万くらい、おじさんが払ってくれていた。
でも、私は寺から早く離れたくて、逃げたくて、どうやって逃げればいいのかを考えていた。
そんなときに、母の難病が分かった。
言い方が悪いかもしれないけど「チャンスだ」と思った。
「母のもとに直ぐ帰れるような場所にある大学に行く」といって、寺とはお別れをした。
今思えば、めちゃくちゃ最低だ。
大学は、いわゆるFラン大学だった。
福岡の大学なんて調べてもなくて、日程的に行けるやつってことで受けた大学だったから、別に行きたい大学でもなかった。
大学で友達や仲の良い先輩もできたけど、行きたい大学じゃなかったから、やっぱり楽しくなかった。
大学は奨学金で行っていたこともあって、ゆくゆくは自分でお金返さなきゃいけないのに、何で意味のない大学行かなきゃいけないのか分からなかった。中退した。
そこからはバイトバイトバイトの生活。
バイトの掛け持ちをしていたはずなのに、生活が回らなかった。
バイトの給料日まで1週間あるのに、財布の残金30円とかもあった。
ここからさらに暗黒の時代になるんだけど、それは書ける話じゃないから割愛。
話をD×Pに戻そう。
私自身の経験と、D×Pの支援に親和性を感じたのが、寄付を決めた理由だった。
「あの頃にD×Pがあってくれたら良かったのに」
そう思ったからこそ、旦那にプレゼンして寄付を決めた。
月額3,000円の支援をして数ヶ月経った頃、私が昼職で働き始めたのをきっかけに月額5,000円のサポートに変更した。
そんなにいつも追っているわけではないけど、今井さんのポストやメールでD×Pの活動を見ていると、「寄付していて良かったな」と思うことが多い。
D×Pの支援は、まずはご飯の支援。
緊急でお金が必要なら8万円の支援金。
そこからの継続的なサポートで、居場所を作り自立をサポートする感じだと思っている(この活動は「西居院」のおじさんの活動に、なんだかちょっと似てる)。
いわゆる「グリ下」の子たちとメインに関わっていると聞いていたから、TikTokで流れてくるハチャメチャな界隈の子たちを見ていて、
「本当に支援に意味はあるのか?」と考えたことも、正直ある。
ただ、総じて言えるのは「居場所がない」んだろうなってこと。
だから、同じ境遇を求めてグリ下やトー横に集まるんだろうな、と。
本人たちに自覚はないかもしれないが、私自身の暗黒時代がそうだったように「虚しさ」があるのかな、とも思ったり。分からないけど。
10代は、まだまだ子ども。
一時的な楽しさを優先したいし、逃げたほうが楽なことからは逃げるが勝ち。それが普通だと思う。むしろ、それでいいと思う。
ただ、そこに「否定しない大人(D×Pのスタッフの方々)」が介入することで、少しずつでも、彼女らの人生に「居場所」ができたらいい。
月額サポートは「お金で解決」してる部分もあるし、実際に現場で関わっているD×Pのスタッフさんの大変さは、私には分からない。
だけど「あの頃の自分」と同じ境遇の子たちを支えることで、私の「あの頃」を否定しないで過ごせるようになった気がする。
寄付をすることでもらう、愛。
直接的に誰かに愛をもらっているわけでもないし、むしろお金は減るけど、「あの頃の自分」に愛を注いでいると思って、私は私が死ぬまでD×Pの支援は続けようと思っている。