新しい歴史をきざむパレスチナ
【パレスチナ事業30周年 ウェブ記事・第四弾】
JVC会報誌「Trial&Error(通称TE)」で振りかえる「JVCパレスチナ事業の30年」。その第四弾となる今回は、1996年の出来事をお届けしたいと思います。
1996年1月20日。「新しい歴史をきざむパレスチナ 歴史的な選挙を控えて 急速に進む和平プロセス」というタイトルで当時の駐在員(吉田進さん)によって書かれた記事(後述)を含む「TE157号」が発行された日でもありますが、まさしくこの日に、パレスチナ暫定自治区(当時)の長官と立法評議会議員(国会議員にあたる)を選ぶ選挙が行われました。
1992年のオスロ合意(Ⅰ)を受けて1995年9月に発足したパレスチナ暫定自治政府においての初めての選挙です。日本の監視団を含む国際的選挙監視のもとに選挙は実施され、結果、ヤーセル・アラファトが議長として選出され、88名の立法評議会議員が選ばれました。
ヨルダン川西岸地区(以下、西岸)やガザ地区で自治選挙が行われるのは初めてで、事前の有権者登録の混乱の様子や、選挙に対するパレスチナの人たちの期待や諦めなどが吉田さんの記事にも書かれています。
新しい政権が西岸・ガザでの自治の全責任を担うとともに、西岸やガザの最終的地位に関するイスラエルとの交渉の窓口ともなります。それだけに、この選挙の結果は今後のパレスチナ問題の行方を大きく左右するとも言えます。
1996年5月、イスラエル側でも総選挙が行われ、結果、ベンヤミン・ネタニヤフが首相に選出され、リクード率いる連立政権が樹立します。「彼ら(パレスチナ)が与えるならば、彼らは得ることができる。彼らが与えない場合、彼らが得るものは無い」といったように、ぺレス前首相と比較して和平交渉のアプローチ が強硬になったと言われています。
歴史に「あの時ああだったら(イフ=仮定)、、、」は禁句とも言われますが、1995年11月にイツハク・ラビン(当時のイスラエル首相)が暗殺されていなかったら、その後の「パレスチナーイスラエルの和平交渉の行方」は当時とは異なる結果になっていたのかなと思わずにはいられません。
選挙といえば、今年は11月1日(火)にイスラエル総選挙が行われます。ネタニヤフ元首相が返り咲くか、与野党が大接戦の模様です。その結果はパレスチナにも大きな影響が及ぶ可能性があるので、動向を見守りたいと思います。
シリーズでは『Trial&Error(JVC会報誌)で振り返るパレスチナ事業30年の歩み』として、当時の事業や状況を紹介した会報誌の一部を掲載しています。
1996年当時のパレスチナ暫定自治政府の長官および立法議会選挙をめぐる現地の様子が書かれた記事です。ぜひご覧ください。写真をクリックすると記事が拡大されます。