読み手としてのnoteの沼から書き手としてのnoteの沼に足をのばしている


こんにちは、百華です。


先週末、過去の振り返りに失敗して以来、振り返るという行為を無意識に避けてしまっているような気がします。

その日考えた他愛もないことを書くのは楽しいのですが、読んでくれている人は、これを求めていないのではないかと焦る気持ちもどこかにあります。


何を書いてもいい、そう決めたのは自分なのに。
ここでも他人を気にしているのかと、ちょっと自己嫌悪。



そんな中で考えているのは、私のnoteはどんな目的の方が見に来てくださっているのだろうということ。

素人の駄文ですし、見てくださる方はとても少ないですが、どうせなら読みに来てくれる人がいいなと思ってくれる文章を書きたい。



そのためにまずは、私自身がなぜnoteを読むのか、そのときに何に惹かれてどんな行動をとるのかについて考えてみる必要があるのかなと思いました。

アイドルの沼落ちnoteと同じように、noteに出会って、ハマっていく過程を記しておくのもいいかな、なんて。




出会いは情報収集


私がはじめてnoteを読んだのは、ネット検索で情報収集をしまくっていた時期です。

病気のこと、福祉のこと、仕事のこと、生活のこと。
不安でいっぱいだったから、誰かの知恵を借りたかった。


検索ワードを入れると、たくさんの検索結果の中に、ときどきnoteの文章が出てきます。
ときには何ページもスクロールした先に、やっと出てくるときもあります。

ネット検索で出会う確率としては、圧倒的に少ない。
なのに、たくさんの情報の中でnoteに惹かれたのはどうしてなのか。



医療関係者や研究者ではない、今を生きる当事者の声。
HPや文献に載せるために編集されたものではない、生の声。

noteにはそれがあったから。


ここには、私が本当に必要としている情報があるんじゃないか。
気づけばnoteの画面でタグ検索して、出てきた文章を手当たり次第に読んでいました。



押し殺していた言葉を紡いでいる


たくさんの記事を読んでいく中で、気づいたことがあります。

noteを書く人たちって、あーでもない、こーでもないって自論を語ってくれているんです。

これが、私にはとても興味深く、好意的に映りました。



私は普段誰かと話すとき、とても言葉を選びます。

なかなか適切な表現が出てこなくて、会話に変な間が空いてしまうことがよくあります。

沈黙の間、私の脳内が忙しく回転していることは誰にもわからないので、聞いていない、空気が読めない、場を乱している、と怒られた回数は数え切れません。

だから、現実世界・日常の中で、私と好んで会話をしようという人はおそらくほとんどいないだろうと思います。


たまに沈黙を気にしない人が、のんびりしてていいなぁ、忘れたころにまた話題が戻るのが面白いと、気に入ってくれる程度です。



沈黙しているときの脳内って、

こんなこと誰かに言うに値しないよな・・・とか、
この言葉だと語弊があるよな・・・・とか、
伝えたいことがうまく言語化できない・・・とか、
この場で言ったら傷つく人がいるな・・・とか、

無駄に動いてます。
言葉の瞬発力がないんですよね、たぶん。


こんなに考えて出した言葉なのに、本当に言ってよかったのか、嫌な思いをさせていないだろうかと、後からうじうじ考えてしまいます。

これによって、さらに瞬発力が下がる悪循環。



すこしそれましたが、こんな感じで周囲に遠慮したり、その場でうまく処理できなくて、自分の中に押しこめてしまうことがたくさんあります。

本当は言いたかったのに、言えなかったことが渦巻いているんです。

同じようなかた、noteの世界にはたくさんいらっしゃるんじゃないかなと勝手に思っています。


こんなふうに意見や分析を心の中にしまいこんでしまった人たちが、主にnoteを書いているんじゃないか。

しまい込んだものにしっかりと向き合って、ゆっくりと時間をかけて言葉探しをした結果が、noteに集まっているんじゃないか。

noteって、言いたくても言えなかったことを、心からの声を表現できる場所なんじゃないか。


そんな印象を受けるようになりました。

ここからnoteを読む目的が、情報収集からその人の心の声を知ることに変わっていったんです。



この人を深く知りたい


書いている方々の自論を見つけながら読んでいると、自分の琴線に触れる文章が出てきます。

ビビッとこなくても、何となくこの人の書く文章が好きだなと感じるものに出会います。


私はそう感じたときに初めて、プロフィール欄や自己紹介記事というものを見るようになりました。



自分との共通項があれば、ここに共感したのかと腑に落ちます。
この人が発信する情報について、もっと知りたくなります。


何も共通項がなさそうなのに、好きだと思える文章に出会えたときは、なぜ好きと感じたのかなんて、難しいことは考えません。
この人が書くほかの文章も読んでみたい、と素直に思います。


共通しているのは、ある人が書く文章に興味をもちはじめたことです。
検索したいテーマでもなく、自分に関係のあるテーマでもないのに、その人の文章に興味をもっているんです。


文章の流れが好きなのか、使われている言葉が好きなのか、語り口なのか、考えかたなのか・・・。

細かく分析したことはないのでわかりません。


でも文章には性格が出るとも言われます。

文章を通して、もっと深く知りたいと思える人を感覚的に見つけているのかもしれません。


いわゆる「推し」ってやつですね。



推しが見つかればもう沼にハマっています。
だって、次に見ることができる機会=新しい記事を楽しみにしているんだから。



もちろん書いているのは人間ですから、推しから発せられる言葉だとしても、受け入れられるときもあれば、拒絶したくなるときもあります。

アイドル応援するときだって、推しの見た目・性格・声・行動、すべてが好きかと言われればそうではありません。

それと同じ。


目の前の文章に、自分の感情や感覚をのせて読んでいくのも、沼落ちを加速させる楽しい作業です。



誰かのための文章ではなく、生きている自分を届ける


あくまで、ここまで語ったのは私の一例です。
ほかの読み方をしている人はたくさんいらっしゃると思います。


でも、読む人はその人の飾らない声を知りたいと思っている。

過去のことであろうと、現在のことであろうと、空想のことであろうと、その人から発せられる素の文章を楽しみに読んでいる。


読みに来てくれる人がいいなと思ってくれる文章
=自分の声を、自分の文章で、自分の思うままに紡いだもの



この結論に達した今、私は猛烈に反省しています。

経験を文章化するにあたって、もしかしたら誰かのためになるかも、なんて思っていたから。


これは私の完全なおごりですよね。
ただ自分の脳内をまとめることもせず垂れ流しているだけのものが、誰かのためになるなんて。

情報として得るなら、もっとまとまったものがたくさんあるはずで、そちらを参考にしたほうが絶対にいい。



でも、私の声が誰かに届いて、心に留めてもらえたら、それはとても嬉しいことです。

そんな日を夢見て、ありのままの自分を表現し続けていけたらと思います。


書き手としてのnote沼には、まだ足先を触れているだけ。
そのうちボチャンと浸かる日が来るのかもしれませんね。



百華




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