「アルケミスト」ーあるいは、愛の恣意性について(エッセイ)
あなたにとっての理想の恋愛とは何でしょうか?
まだまだ20年しか生きていない私ですが、ここ数年の恋愛観の多様化と、出会いの合理化には目を見張るものがあると感じております。特にマッチングアプリの進化とその受容は、旧来の恋愛の在り方を大きく変えており、アルゴリズムによって計算された出会いは2人の高相性を導きます。
しかし、アルゴリズムによる巡り合わせは、必然的に運命性や恣意性といった不確定要素を排除します。勿論長い人生を共に歩んでいく2人にとって、その相性の良さや恋愛観の合致は必要不可欠であり、そのことについてとやかく言うつもりはありません。私が述べたいのは、または、夢見るのは確実性から最も遠い、つまり最も曖昧で最も恣意性の高い、つまり最も運命的な愛なのです。少々ロマンチストの戯言にお付き合いください。
そもそもマッチングアプリ以外の恋愛においても、その多くは限られた枠組みの中で育まれることが多いのが普通だと思います。それは例えば大学であったり、仕事場であったり、などです。
もっと時代を遡れば、それは村であったり身分であったりもします。だからこそ、「身分違いの恋」は日本だけでなく世界中で恋愛物語の主題として長い間描かれてきたのだと思います。
私はこれらの関係性の枠組みを超えた大恋愛を夢見るのです。
そして、かつてこんな夢想をしたことがありました。
ある日、天から巨大なクレーンが降りてきて私を捕まえ、どこか遠い砂漠に振り落とします。まさにクレーンゲームの賞品のように。私はようやく体を起こし、砂を取り払って目を開きます。辺りは草一つ生えていない、見捨てられた土地です。知覚できるものはただ砂と空だけ。すると、目の前に一人の少女が立っているのが見えてきます。そして、彼女と目があった瞬間、私と彼女は、お互い結ばれることを悟るのです。彼女もまた、私と同じように天からのクレーンによってここに運ばれてきました。彼女は同じ日本人かもしれないし、全く違う人種かもしれない。往々にして言葉さえ通じないかもしれない。しかし、そんなことは問題ではないのです。運命によって、神の悪戯によって我々二人はここで巡り合った、それだけで十分なのです。
私がこのような夢想をしていたことを、私は長い間忘れていました。
ええ、「アルケミスト」を読んだとき、不意にこの夢を思い出したのです。
言わずと知れた名作、パウロ・コエーリョの「アルケミスト」の主人公・サンチャゴはピラミッドに向かうためにアフリカの砂漠を横断していました。そしてその途中で滞在したオアシスにて、まさに彼の運命の人・ファティマに巡り合うのです。オアシスの井戸で初めて二人が目を交わした瞬間、二人は互いに全てを理解し、やがて結ばれます。
私は、このシーンを初めて読んだとき、既にそのことを知っていると感じました。なぜなら、かつて上述のように理想の愛を思い描いていたからです。もしかすると、在りし日の私が思い描いた大恋愛の夢は「アルケミスト」に出会うまさに「前兆」だったのかもしれません。本当に、そう信じることができるのです。それ程そのシーンとの出会いは運命的なように感じられたのです。それから、「アルケミスト」は、私にそのような大恋愛を夢見る自由を認めてくれたような気もします。関係性の枠を超えて、地球に、将又宇宙全体に愛を思い描いても良いのかもしれない、と思わせてくれたのです。本当に救われた気がします。
「アルケミスト」で一番のお気に入りの場面があります。それは主人公・サンチャゴが愛人・ファティマのもとを離れて砂漠を横断し、ピラミッドに向かう場面です。その時ファティマは愛する勇敢な恋人に向けて、風に乗せてキスを送り、そのキスが愛する人の頬に触れてほしいと祈りを捧げます。そして、そのキスはレバンタール(アフリカからスペインにかけて吹く風)に乗って、やがて少年のもとへと届くのです。
ともすると、私はもう既に運命の人に出会っているのかもしれません。そして誓いのキスも、あの日の冷たい風に乗って。。
もしその資格があるのなら、「運命」とやらに尋ねてみたいものです。