映画「サンセット・サンライズ」役作りという当たり前にやるべきことをちゃんとやるだけで映画は見応えあるものになるという当たり前の話
どれだけ面白くなさそうな映画でもクドカンが参加していれば映画館に足を運んで観るようにしている。
松本人志はかつて「挽肉に裏切られたことがない」と迷言を残しているが、おれはクドカンに裏切られたことがない。
「ゆとりですがなにか」もドラマは一切観ていないが、クドカンが脚本だからというだけで映画館で鑑賞した結果、観て良かったと思えた。意外と、良かったのである。
だいたいクドカン作品は、バカバカしい展開の積み重ねでこちらのハードルを極限まで下げて、不意打ちで感動を持ってきて、毎回ハッとさせてくる。「サンセット・サンライズ」もまさにこのパターンだった。
原作小説は未読。監督は岸善幸。主演は菅田将暉。この二人は「あゝ荒野」「二重生活」でも組んでいるので、お互いの呼吸は合うっぽい。
ヒロインが井上真央で、脇を竹原ピストル、三宅健、池脇千鶴、中村雅俊など、良い感じの実力派が堅めている。キャスティングのラインナップだけでまず安心して観れる映画であるとわかる。
時はコロナ禍。菅田将暉が演じる東京在住の釣り好きの男がテレワークを機に東北の三陸にある過疎化した町に移住するところから物語が動き出す。
今更被災地とか、コロナ禍とかどうでもいいし(これを後半で菅田将暉に言わせていたのがさすがである)、空き家問題なんて、そんなもん映画にしておもろいんけ? というのが観る前の所感。
それと、井上真央と池脇千鶴が共演しているのが引っかかっていた。この二人は比較的顔の造りや声の感じが似ているから、おれの中では混ぜるな危険扱いであるのだが、これは良い意味で裏切られた。
以下、若干ネタバレはあるが基本的には演技と役作りについてがメインなので鑑賞に差し支えはないと思うが、自己責任でお願いします。
菅田将暉が住んだ家は3.11の津波でそこに住む家族が失われた曰くつきの空き家である。
その家で一人生き残った妻(井上真央)は亡き旦那の父親と別の家で二人暮らししている。
震災未亡人である井上真央の周りには竹原ピストル、三宅健とか、彼女に片思いする男が何人かいる。
で、町は感染対策で東京から人を立ち入らせない方針になっている。そんな状況で菅田将暉が震災未亡人の持ち家に移住すること自体が、男女のいざこざやら都会人への嫉妬、感染への恐怖を呼び起こす。トラブルが移住してきた。と言っても良い。
そもそもクドカン作品は「不適切にもほどがある!」で昭和の価値観丸出しのおっさんがコンプラでガチガチの令和の放送業界にタイムスリップするとか、「タイガー&ドラゴン」でヤクザと落語家をつなげるとか、クセのある人物を場違いな場所に投げ込むことで、火のあるところにガソリンを撒くように物語を膨らませる作家だと思う。
本作でも菅田将暉がコロナ禍に東京から東北に移住することで、騒動が巻き起こる。その詳細についてはあれこれ言うこともない、いつものクドカン節が効いていると言うに留める。
テーマは役作りである。
先ず、菅田将暉。彼の顔がふだんよりも膨れているのは小松菜奈との結婚生活での幸せ太りかと思う気もするが、恐らく、いや絶対に役作りだろう。不思議とだいぶ昔のことのように思えるが、つい何年か前のコロナ禍では、巣篭もり生活のせいで、ぽっちゃりした人は多かった。菅田将暉は恐らく監督と相談して体重を増やし、顔をむくませたのだと思う。こういう繊細な役作りがしっかりできる上にのびのびとした表現力もあるから、ますます良い俳優に育っていくなあと、しみじみ思う。
それと、池脇千鶴。彼女もけっこうぽっちゃりとしていた。最近はこんな感じなのか?と、ふと思ったのだが、いやいや、「ジョゼ…」や「そこのみにて光り輝く」での役作りを我々は知っているのだ。だから彼女も菅田将暉と同じように間違いなく、本当に田舎の町役場にいそうな、ぽてっとしたおばちゃんに役作りで近づき、憑依したと思って良い。おかげで元の顔のパーツがそっくりな井上真央とは完全に切り離れた人間を見事に演じていた。いや、演じるというより、体現していたと言いたい。
で、井上真央。それと、竹原ピストル。二人とも魚を捌くシーンが多々あるのだが、これがもの凄く自然で、ちゃんと芝居もしている、これがどれだけ難しいことか、何かしら撮影現場で調理シーンを見たことがあれば容易にその難しさがわかると思う。音楽はやったことないけど、ドラム叩きながら歌うくらい修練しないと難しいことだと個人的には思っている。井上真央が動揺しながら魚を一から捌いて包丁で叩き、なめろうを作りながら演じる場面はカット割りで逃げることをせず、ちゃんと調理する手元まで見せているからすごい。
総じて役作りで何より感動したのは訛りだ。井上真央、池脇千鶴、竹原ピストル、山本浩司、三宅健、好井まさお、中村雅俊、ビートきよし。彼らが元々どれだけ東北訛りを習得していたのかは不明だが、全員が全員完璧に訛り、演じ切っていた。
クレジットの方言指導に小野寺ずるとあり、自身も最後の方でちょいと出演していたが、彼女の貢献も相当あったんじゃないかと思う。何作か出演作を観たことがあるが、芝居も達者で、朝ドラのメインで出演しても全く差し支えない人物である。
菅田将暉は東京在住でありながら二度ほど大阪訛りを露呈させたが、厳密に出身地は明かされていないし、表現の豊かさを優先してOKテイクにした監督の裁量は賢明だと思う。
役者ら全員の努力によって見応えのある作品になったことは違いないが、それを指揮した監督の存在を忘れてはならない。
岸監督の演出手腕はビートきよしの芝居に現れていると思った。だいたい、きよしも、たけし軍団も、たけし映画の中で最大限魅力を発揮していると個人的に認識している。ビートきよしに関しては、いつだって、大根の感じが拭えない。それが味といえば味なのだが、岸監督はきよしの口に常にスルメを咥えさせることによってオーバーになりがちな芝居を抑制して、目で語らせ、怖さと可笑しさを醸し出す演出に成功している。
この点を踏まえて登場人物の仕草に着目していくと、三宅健の田舎のヤンキー感、好井まさおの童貞感、池脇千鶴の田舎の役場のおばちゃん感も、演出があったからこそ役作りの成果が最大限発揮できたのだろうと想像できる。
タイトルにも書いた通り、役作りという当たり前にやるべきことをちゃんとやるだけで映画は説得力を獲得し、見応えのあるものになる。結局、映画は人間がすべてで、最低限、人間さえ正直に描くことができればそれでいいのに、人間が蔑ろにされるから、定期的に漫画原作でよくあるクソ映画が生まれるし、逆に、一人暮らしのおっさんが便所掃除で働く姿を淡々と描くだけで「perfect days」のように評価される作品も生まれるのだ。と、映画談義で鉄板の、映画とは何か云々を性懲りも無く考えてしまう。
Netflix、YouTube、アニメ、AIの発達。これらによって、人間が人間によって作る劇映画は今世紀中に消滅するんじゃないかと畏れることはある。でも、こうして、人が人を演じることに真剣に向き合う人たちがいる限り、映画は存続していくのだろうと思う。これも、映画の未来について語るときに鉄板の話ではあるが、当たり前のことを当たり前に語ることをやめたら政治が腐敗するように映画も腐敗していくと思うので、おれは恥ずかしさを恐れずに、マンキンで、中学生みたいな映画議論をやり続けたい所存。
本作は公開初日に新宿の劇場で観たが観客は30人くらいだった。なんとか次回作を撮れるくらいの収益を回収してくれたら嬉しい。そしたらまた観に行きますので。