老いては子に従ってマカロニえんぴつ。~結婚について、序章~
基本的に、私は自分より若い世代にはかなわないと思っている。
子どもは言うまでもないが、今の若者は賢い。
私は50代だが、彼らは我々の世代の何倍も物事がわかっている。
相手のことを思いやる気持ちや共感力もおしなべて高い。
親のことを好きな率も高い気がする。
素直でもある。
自己肯定感が高いから、安心して自分のことを卑下できる。
だから、もう政治のこととか、この国のこれからのことは彼らに任せてしまえばいいのではないかとすら思う。
そんな若者だが、しかし、青春期には彼らがバカになる2大誘惑が訪れる時期だ。それは恋愛と飲酒である。
だが、今、恋愛をせず、酒も飲まない若者が増えていると聞く。
そんな。
ただでさえ賢いのに、それじゃバカにならないまま人生終わるのか。
上の世代はものの見事に恋愛と飲酒の大波をひっかぶり、バカになった結果、いきおいだけで結婚などをし、その無理難題さに日々四苦八苦しているというのに。
一方、まだちゃんと恋愛している派もいる証拠に、ラブソングはなくならない。
ラブソングはかったるい。特にバラードは聴いていられない。
昔からそうだったが、恋愛に縁遠くなった今、さらに今どきのラブソングはホントに聴いていられない。
中には
バカなの? 大丈夫??
と心配するような歌詞を耳にすることもある。
自分がバカなことは棚に上げ、である。
落ち着け、大丈夫だ、安心しろ。終電なくなって夜通し駆けなくてもいい。性欲でひと言で片付ければ1秒で済むことを5分の歌にしなくてもいい。
10年、20年もたったら、今思い悩んでることなんてきれいさっぱり忘れるか、まじでどうでもよくなるから。
と言ってやりたい歌ばかり・・・かと思えば、そうでもないことに、マカロニえんぴつの曲で気づいた。
君といるときの僕が好きだってなんだ。
と初めて聴いた時、思った。
新しい。新しすぎる。
(ちなみに後日読んだ本で、この「自分が好きな自分でいる」状態は心理学の用語で「自己一致」というと知った。)
私の知っている恋愛状態の自分は、自己嫌悪の対象になりこそすれ、とても「今の自分イケてる」というものではなかった。
ただでさえ、自分に自信がないのに、恋なんてした日には「夜は自己嫌悪で忙しい」(倉橋ヨエコ「夜な夜な夜な」)し、「いつもの私はどこ」(倉橋ヨエコ「想い巡り」)なのだった。ヨエコばっかりだな!
でも恋愛リアリティーショー番組「バチェラー・ジャパン」シーズン5でファイナル・ローズをもらった大内悠里さん(好きです!)も「過去の恋愛では、いつも疑心暗鬼だった。相手が自分のことを好きだと言ってくれても、絶対ウソじゃん、私1番じゃないと思い込んでいた」ということをインタビューで言っていたし、この「恋愛する自分を貶めてしまう現象」はまだ健在ではある、とは思う。
が、大内さんはその後で「バチェラーに参加し、相手が自分のことをどう思っているかは永遠にわからないことだけど、自分が相手のことをどう思っているかはわかる。相手の気持ちを気にしてわーってなるんじゃなくて、それに翻弄されず、自分はどうなのって、自分に問いかけるようになった」と答えている。
やっぱ若者、賢い。気づきの定着が早すぎる。
賢いとは過ちを犯さないことではない。同じ過ちを繰り返さないことである。
そういう意味では、やっぱり大人はバカだと思う。
夫婦は顔を突き合わせれば、同じネタで何年もバトルをやっている。
その間、子どもは成長し、とっくに愛想を尽かしている。優しいので、表面的には母親のケアなどもしてくれるのが子どもだ。
ゴングがなる瞬間、強烈なデジャヴが襲うが、大抵の場合、もう手遅れだ。
神経衰弱でまた同じカードを引いてしまった後悔。
相手を攻撃することでしか愛情を表現できなくなってしまった、かなしい生き物。
こんな自分を好きになれるはずがない。
なのだが、そんな中年にも希望を与えてくれるのが、前出の「君といるときの僕が好きだ」だ。
どんなときも、自分の好きな自分でいたい。
自分のリズムで息をして、自分の歩幅で歩みを進めたい、ときには止まって道端の花にも気づきたい。
連れ合いの言動にキレてもいいけど、どんな反応を取るかの主導権は自分が握っていたい。「あんたのせいで」とかぜったい言わない。
そーいう意味で、わがままでいたい。
いや、そーいうの、別にわがままじゃないんだと気づくまでに半世紀近くかかってしまったというお話。