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お箸は神と人の世界の境界線という説

お箸を使う国は日本だけに限らない。韓国、中国、その他東南アジアには、お箸を使う文化があるが、横向きに置くのは日本だけなのだとか。諸説あるものの、自然を敬い崇めてきた日本固有の信仰と深く関係しているらしい。


神の世界と人の世界

境界線であり、神と人を繋ぐもの

箸を使う国は日本だけではないのに、箸を横向きに置くのは日本だけ。そう言われればそうだなと、初めて気づくほど日本で生まれ育った私にとって、あたりまえの日常の一コマになっている横向きに置かれた箸。日本の食事のマナーとしても定着していて、箸の持ちあげかた、使いかたまで作法があるのに、なぜそうするのかを考えたこともなかった。

横向きに置くようになった理由は諸説あるようだけど、箸の向こう側は神の世界こちら側は人の世界、その境界線(結界)であり神と人を繋ぐものというのが、有力な説のよう。そして何となく、しっくりくる感じがする。なぜなら日本は古来より、自然を神として敬い崇めてきた。万物に神が宿ると信​​じられ、自然を敬いながらも恐れ奉る言動が日常生活に深く根付いているからだ。

例えば「お天道様が見てる」「くわばら、くわばら」などの他、お茶碗にくっついた一粒の米でさえ「お米を残すと目がつぶれる」と言われ、綺麗に食べきるよう注意されていた。今でも日本の食事のマナーとして、お茶碗に米粒を散らしたように残すのはご法度だ。

江戸時代(1603~1868年)には、ご飯を一粒残さずきれいに食べるため、食事の最後にお茶碗でお茶を飲んでいた。今のようにインフラが整っていなかったため、食器を洗う水を節約するためでもあったようだが、全ての物を大事にする心が根づいていたからなのではないかと思う。


日本の稲作

日本の稲作は縄文時代(紀元前10世紀)に始まった。以来、品種改良や栽培技術を積み重ね数千年にわたり栽培されてきた。その努力の賜物が、今の日本の米の美味しさ、品質の高さにつながっている。今では世界でも高く評価され、日本から輸出される有機の米などはじわじわ価格が上がっていっている。それはそれでとても喜ばしいことである反面、美味しくて高品質、かつ土壌に負荷をかけない方法で栽培された安全な米は、日本人には手が届かなくなる気がしてならない。

市場の原理

実際この春の筍がそうだった。春先だけ、高齢の農家さんに代わって筍の販売をしているが、本当に美味しい筍は老舗料亭や星つきレストランやホテルがお客様、たまに経営者層が贈答用に購入。傷あり、育ちすぎなどのB品は地元の飲食店、残ったものが一般の人という順番になってしまう。農家さんにとっては良いことだけど、社会の格差がどんどん大きくなっていくのを感じずにはいられなかった。米も恐らく、この流れになるだろう。

なにしろ高い品質の米を栽培するのは、とても手間暇がかかる。ただでさえ稲作農家の高齢化と減少問題があるなかで、政府はさらに水田を手放させるような策にでているのだから。残念ながら多くの日本人はその事実を知らない。それが今後どんな問題を引き起こすかを理解していないように見える。


日本人が思い出すべき心

炊きたてのご飯の香り、あの艶感と美味しさは恐らく日本人にしかわからない感覚。今はよほど質の悪い米でない限り、それを感じることができる。でも今後、質の高い美味しい米は海外や老舗料亭などに流れ、一般に出回るのは香も艶も甘みも、それほど感じられないものが多くなる可能性は決して低くない。なぜそうなるのかを詳しく書きたいところだが、そういうことに興味をもつ人が少ないという今の日本の現実を踏まえ、書かないことにした。

私が生まれ育った家の周りには田んぼがあり、春にはピンク、夏には青、秋には黄金色へと変化をしていったのを覚えている。冬には稲刈り後の乾いた土が、春にはまた蓮華のピンクに染まり、初夏にはオタマジャクシが泳ぎ、夏にはカエルが合唱する。遠くに見える山の変化より、ずっと身近に自然のサイクルを感じられる大事なものだった。

食文化はそれぞれの国の魂のようなもの。特にお米は日本人にとってとても大切。それは自然の神からの贈り物であり、お箸と同じく、神と人がつながる絆でもあったように思う。それが誰かの利益のために壊されていくのを感じ、切なさと言葉にしがたい思いがこみあげる。もう一度食べ物のありがたさを感じ、自然を敬い崇める心を思い出す必要があるように思う。

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