わたしは、あの人だったかもしれない
こんにちは(^^)
ジェームズ・キャメロン監督『タイタニック』が、先日地上波で放映されました。タイタニック号沈没の悲劇の裏で、貴族階級出身のローズがいわゆる貧困層・自由人ジャックに出会い、人生を大きく変えていく物語です。ローズの婚約者キャルのいる輪でポーカーが行われたとき、ジャックは「人生はギャンブル。初めにどんなカードが配られようと、決して勝負を諦めない」というようなことを宣言します。いやぁ、しびれます!
ロールズは次のように論証する。共同体の生活を律する原理を選ぶために、つまり社会契約を定めるために人びとが集まったとしよう。彼らはどのような原理を選ぶだろう。おそらく、意見はなかなか一致しない。利害、道徳観、宗教的信条、社会的地位が違えば、支持する原理も当然違うからだ。金持ちもいれば貧乏人もいる。強大な権力やコネを持つ者もいれば、そうでない者もいる。少数派の人種、民族、宗教に属する者もいれば、そうでない者もいる。人びとは妥協案に同意するかもしれない。しかしその案にさえ、強い交渉力を持つ者の思惑が働いている可能性が高い。このようにして結ばれた社会契約を、公正な取り決めと考える理由はない。
一つ思考実験をしてみよう。人びとは原理原則を選ぶために集まったが、自分が社会のどの位置にいるのかはわからない。全員が「無知のベール」をかぶった状態で原則を選ぶのだ。無知のベールをかぶると、一時的に自分は何者かがまったくわからなくなる。自分が属する階級も、性別も、人種も、民族も、政治的意見も、宗教上の信念もわからない。自分の強みや弱みもわからない。つまり自分は健康なのか虚弱なのか、大学を出ているのか高校を中退したのか、家族の絆は強いか弱いかも、いっさいわからないのだ。もし全員がこうした情報を持っていないなら、実質的には誰もが平等の原初状態で選択を行うことになる。交渉力に差がない以上、人びとが同意する原則は公正なものとなるはずだ。
これがロールズの考える社会契約、すなわち平等の原初状態における仮説的な同意である。もし自分がこのような状態に置かれたら、あなたは合理的で利己的な個人として、どのような原則を選ぶだろうかとロールズは問いかける。ロールズは、すべての人が実生活でも利己的に行動していると考えているわけではない。ただこの思考実験のために、普段の道徳観や宗教的信条は脇に置いて、自分ならどうするかを考えてほしいと呼びかけているのだ。あなたが選ぶのは、どのような原則だろうか。
(中略)
功利主義は選ばれない、とロールズは言う。無知のベールをかぶっているときは、自分が社会のどこに属しているのかはわからないが、自分の目的を追求し、敬意を持って扱われたいと願っていることはわかる。もし自分が少数民族や宗教的少数派に属しているなら、たとえそれが多数派に快楽を与えるものであっても、不当な扱いを受けたくはないはずだ。無知のベールがとりはらわれ、現実の世界に戻ったときに、宗教迫害や人種差別にさらされるのは困る。そこで人びとは自衛のために功利主義を拒否し、すべての市民に基本的自由(信教の自由や思想の自由など)を平等に与える原理に同意する。そしてこの原理は、全体の幸福を最大化しようとする試みよりも優先されると主張する。人間は社会的・経済的利益のために、自分の基本的権利・自由を犠牲にしたりはしない。
では、社会的・経済的不平等を管理するために人びとが選ぶ原理は何か。まずは自分が極貧状態に陥るリスクを回避するために、所得と富の平等な分配を支持しようと考えるかもしれない。しかし、もっとましな方法、底辺層にも利益をもたらす方法があることに気づく。たとえば、ある程度の格差(バスの運転手より医師のほうが高給であるなど)を認めれば、最貧層の状況も改善できるかもしれない。貧しい人びとも医療を受けやすくしてはどうだろう。こうした可能性を考慮するなら、人びとはロールズの言う「格差原理」を採用するかもしれない。これは社会で最も不遇な人びとの利益に資するような社会的・経済的不平等だけを許容するという考え方だ。
格差原理が、実際にどの程度平等主義的かは何とも言えない。賃金格差がもたらす影響は社会的・経済的状況によって異なるからだ。もし医師に高給を払うことで、貧困地域の医療が改善されたなら、この場合の賃金格差はロールズの原理と一致していることになる。しかし医師に高給を払っても、アパラチア地方の医療は何も変わらず、ビバリーヒルズでは美容整形外科医が増えただけなら、この場合の賃金格差はロールズの観点からは正当化できない。
マイケル・ジョーダンに支払われる巨額の報酬や、ビル・ゲイツが保有する莫大な財産についてはどうか。このような格差は格差原理と一致しているのだろうか。もちろん、ロールズの論理は個人の給料の公平性をうんぬんするためのものではない。それは社会の基本構造と、権利と義務、所得と富、力と機会の分配方法を論じるためにものだ。ロールズにとって考える価値のある問題とは、ゲイツの富は、最も不遇な人びとの利益に資するような仕組みから生まれたものかどうかだ。たとえばゲイツの富は、貧困層に医療、教育、福祉サービスを提供するための富裕層を対象とした累進課税の対象となっているか。もしそうなら、そしてもしこの制度のほうが、一律平等を実現するための施策よりも貧困層の暮らしを豊かにするなら、この格差は格差原理と一致している。
原初状態では格差原理が選ばれる、という前提そのものを疑問視する声もある。無知のベールをかぶっている人びとが賭けに出ないとどうしてわかるのか。どんなに厳しい格差社会であろうと、その頂点に立つ可能性が少しでもあるなら、彼らは喜んで賭けに出るかもしれない。自分が王になる可能性があるなら、土地を持たない農奴になるリスクもいとわず、封建社会を選ぶ者さえいるかもしれないではないか。
しかしロールズは、人間は自分の運命を左右する原理を選ぶときに、そのような賭けはしないと考える。自分はリスクを喜んで取るタイプだという自覚がないなら(無知のベールによって気質は隠されている)、いちかばちかの賭けをする人はいない。また彼は、原初状態ではリスクが敬遠されるという仮定のみを根拠に格差原理を支持しているわけではない。無知のベールという仕掛けを支えているのは、思考実験とは関係なく提示しうる道徳的な議論だ。簡単に言えば、それは所得と機会は道徳的に恣意的な要素に基づいて分配されるべきではない、という考え方である。
ロールズは持論を展開するために、正義に関するほかの理論を引き合いに出す。最初の比較対象は封建社会の貴族制度だ。こんにちでは、封建社会の貴族制度やカースト制度を正義だと擁護する者はいない。ロールズも、これらの制度は不公平だと言う。これらの制度は生まれをもとに所得、富、機会、力を分配するからだ。貴族に生まれた者には、農奴に生まれた者には認められない権利と力が与えられる。だが生まれは自分で選べるわけではない。したがって、このような恣意的事実が人生の見通しを左右する社会は公正ではない。
市場社会には、この恣意性をある程度是正する力がある。市場社会では、市場が必要とする才能の持ち主には出世の機会が開かれるからだ。また法の下では誰もが平等だ。市民には基本的自由が平等に保証され、所得と富の分配は自由市場によって決定される。このシステム――機会の形式的平等が確保されている自由市場――は、リバタリアンの正義論と対応している。それは生まれに基づく固定的な階級制度を否定しているという点においては、封建社会やカースト社会よりも優れている。法的には、誰もが努力し競争する権利を認められているのだ。だが、現実は機会均等には程遠い。
協力的な家族のもとに生まれ、よい教育を受けた者は、そうでない者とくらべると明らかに有利だ。誰でも競争に参加できるのはよいことだが、そもそもスタート地点が違っているなら、その競争は公平とは言えない。だからこそロールズは、機会の形式的平等のみが保障されている自由市場に、所得と富の分配を委ねるのは公正ではないと主張しているのだ。リバタリアニズムに基づく制度の最大の問題点は、「道徳的にきわめて恣意的な要因によって、分配の比率が不適切な影響を受ける可能性がある」ところにある。(つづく)
マイケル・サンデル(Michael J. Sandel)
『これからの「正義」の話をしよう いまを生き延びるための哲学』(原題:Justice―What's the Right Thing to Do?、鬼澤忍・訳、早川書房、2010年) 第6章 平等をめぐる議論―ジョン・ロールズ より
この思考実験、ある映画を想起させます。わたしは、閉鎖空間&極限状態、その中で様々な人間の様々な思惑が交差する話が苦手でまだ観れていませんが、『プラットフォーム』(2019)というスペイン映画です。目が覚めたら主人公ゴレンが「48階層」にいた、そこは遥か下まで伸びる塔のような建物で、上下の階層は部屋の中央にある穴でつながっており、上の階層から「プラットフォーム」と呼ばれる巨大な台座に乗せられて食事が運ばれてくる。食事は上にいる人々の残飯だが、ここにはそれしか食べ物はない。各階層には2人の人間がおり、ゴレンは同じ階層にいた老人トリマカシから、1カ月ごとに階層が入れ替わること、そして食事を摂れるのはプラットフォームが自分の階層にある間だけ、というルールを聞かされる。1カ月後、ゴレンが目を覚ますと、そこは以前より遥か下の「171階層」で、しかも彼はベッドに縛り付けられ身動きが取れなくなっていた。(映画.com 作品情報参照) …ぐえ、興味はあれど、観る勇気がありません…(;´Д`)
むかし、わたしは自分のこの状況・条件、総じてこの人生を選んで生まれてきたわけではない、それは他人もおなじで、あの人はあの人の理屈・論理を身につける過程(人生)を選んで生まれてきたわけではない、ということをひたすら感じていたことがありました。たとえば職場でどうしても反りが合わない人物がいたときに、「でも、わたしはこの人に生まれていた可能性だってあったのかもしれない、選んでわたしとして生まれたわけじゃないんだから」との発想が、世界を見る目を一変させたことがありました。…ちょっとこじつけっぽいかしら…?
簡単に、努力しないのが悪い、と切り捨てるのも問題だと気づきます。そもそも努力できる土壌(生まれつきの能力、周囲の環境などの支え)がない人がいます。恵まれていると気づきにくい“溜め”に自覚的であれば、「自己責任」なんて冷徹に言い放てないはず…!
What rules can we introduce for all people of the world ??☆