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【創作の背景】終わりなき日常を生き続けるのは難しい!?

「終わりなき日常を生きろ」。

終わりなき、というのは、
スッキリとした決着が付かないまま、
あるいは、そんな決着への
希望や未練は捨てて、
淡々と生きてゆけ!
そういうメッセージです。

「終わりなき日常を生きろ」
最初にこの言葉が世に出たのは、
1980年代、1990年代に活躍をしていた
社会学者、宮台真司さんが
1995年に出版した本のタイトルでした。

終わりなき日常が
終わりなく続く時代。
それはまた現代そのものでもある。
1995年に命名されたタイトルの意味は
今もまだ続いているらしい(汗)。

終わりなき日常ではなく、
終わりある日常がまだ
信じられていたのは、
1960年代、1970年代の学生運動。
それがマボロシと消えた80年代は
自分探しブームやバブル時代、
90年代は、
スピリチュアル世界の興隆、
そうして、オウム真理教事件、
そうして、現在は
それが自己啓発にとって変わった。
と、同時に、旧統一教会が
日本全体に浸透していたことが
明らかになった。
終わりある日常を目指し、
ずっとずっとずっと
私たち人間は悪あがきをしてきました。

どれも、希望や未来のために、
個人に幸福を夢見させてくれる
「フィクション」いや
「ファンタジー」ですね。

そうしたファンタジーは、
ずっとず〜っと続いてきた。
なんて恐ろしい事実だろう。
私たちはファンタジーなしには
生きられないのでしょう。

おっと。
忘れていました。
ここnoteで、創作を投稿してる人も、
自らファンタジーを書き、
生きながらえている。
やはり人生にフィクションは
必須らしい。

いや、創作だけではないですね。
こうしてファンタジーの話をしてる
私みたいな記事書きも、
やはり、ファンタジーから
離れられないのですから、
ファンタジーに取り憑かれてる
ことには変わりなし!ですね(汗)。

終わりなき日常は、
生き抜くにはあまりにキツく、
我慢ならなくなる。
それが一般でしょう。
だから、
少しでも、ドラマチックに生きたい。
答えがスッキリと出る日々を
生きていたいと願ってしまう。

社会学者、宮台真司が考え出した
「終わりなき日常を生きろ」という
言葉に素直に従える人は
どうも、いないらしい。

今もまだ、1980年代の
退屈な空虚さはずっと
形を変え、続いてきたんですね。

おっと、ここで自分を、
自分だけを棚上げしてはならない。

わたしだって、
何か出来事にならなくても、
毎日せっせとnoteを書くのは、
「noteを書く」ことの先に、
何かに出会えるんじゃないか?
そんな不確かな希望に、
つまり、ファンタジーに
すがりついている人間の一人。

どんなに諦めろ!と言われても、
われわれは小さな希望という
小さなファンタジーを、
つむぎだしてしまう動物のよう。

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