【好奇心】人はなぜいつも知りたいのだろう?
なぜ人は知りたいと思うのだろう?
なぜ人は好奇心があるのだろう?
昔、そんな疑問を言ったら、
ある作家がこういった。
それが生きるってことだからだよ、
と答えてくれました。
でも、その時はよくわからなかった。
で、今朝、近所のマクドナルドで
朝マックを食べながら読んでた本が
あまりに的確なことを書いてて、
私はビックリしました。
以下は、荒川洋治
『文学の空気のあるところ』
中公文庫、
第2章「自己愛を超える」より。
「自己愛というものが多いと言われますが、ぼくは自己愛は大賛成で、ぼくなんか自己愛の塊みたいなものです。
しかし、自己愛にもそのうち飽きてくる。自己愛というものをたどっていくと、おのずと時間を遡行することになる。じゃあ自分の父や母はどういう暮らしをおくったのだろう。『風立ちぬ』の時代に、『如何なる星の下に』の時代に。あるいはまた、自分の祖父や祖母はどうだったのか?昭和の歴史はどうだったのだろう。大正は?明治は?自分につながるものが地理的にも歴史的にも、どんどんひろがっていくはずなんです。ほんとうにそんなに自分が好きならね。
なんでも自分につながってきますね。自分がほんとうに好きならね。ではアジアの人たちは、どうだったのかというふうに、世界へも関心が伸びていく。それが自然なことです。
だから、自己中心、自己愛の人というのは、自己愛が過剰なのではなく、自己愛が足りないんですよ。そこを知っておく必要がある。」
荒川洋治さんはふだんは優しく、
毒のない文章の人だ。
だから、こんなにピリッとした風刺の
効いた話をするのかと
少し動揺しました。
「知る」ということの在り方について
どうあるべきか?
教わった気がしたんです。
知りたいと思うのは、
生きたいと願うことと同義語です。
だから、スマホで情報を追いかける
ことも、生きたいという証だ。
1枚の絵画を見たいということも
また同じでしょう。
米津玄師を聴きたいということも。
ゲーム実況をしたいということも。
好きな人を知りたいということも。
「知りたい」は無限ですね。
知りたいということについて、
その本質に触れた詩を荒川洋治さんは
先の文章の手前で紹介しています。
「何にも強い
興味をもたないことは
不幸なことだ
ただ自らの内部を
眼を閉じてのぞきこんでいる。
何にも興味をもたなかったきみが
ある日
ゴヤのファースト・ネームが知りたくて
隣の部屋に駆けていた。
〜以下、中略〜
生きるとは
ゴヤのファースト・ネームを
知りたいと思うことだ。」
これは飯島耕一という詩人が書いた、
『ゴヤのファースト・ネーム』
という詩歌の一部だそうです。
ひきこもりだった青年がいて
その内面に急に何かがあったのでしょう。
そうして、
なぜか、ゴヤのファースト・ネームが
知りたくなって、
隣部屋に駆けていく。
その初々しい姿が目に浮かびます。
この、ものを知りたいという姿には、
人生の根本的な欲求なんでしょう。
ちなみに、ゴヤの本名は調べると、
フランシスコ・ホセ・デ・ゴヤ・イ・
ルシエンテスでした。
ファースト・ネームはフランシスコ
でしょうね。
急にファーストネームを知りたくなった
青年は、きっとずっとゴヤの絵を
観ながら、ふと、この美の巨人が
ふだん友人や家族らから
何と呼ばれながら暮らしていたのか、
知りたくなったのでしょう?
知りたいは、生きたいと同義語でしょうか。