【読書】注がいっぱい付いた本って、どう感じますか?
最近、気になってることがあります。
文庫の巻末の注釈が増えてきた問題、です。
「この単語は読者は知らないかな?
ちょっと欄外に脚注をつけよう」
「巻末にまとめて注をつけよう」と
作者や編集者が思う時、
本文の欄外や巻末に、そうした単語の
注釈を書いて誰でもわかるようにします。
その「注釈」が今、量が増えています。
昭和時代の作品を復刻する時、
もう平成をまたいで今は令和時代。
さすがに、知らない単語はいっぱい
本文に出てくるから、仕方ないかなあ…。
でも、作家や作者には、あまり注を
つけたくないという人が多くいます。
知らない単語は、読者本人が
気になったら自分で調べたらいいのだし、
本の上で注をつける時、
この本の読者はその単語を知らないという
可能性が高いと、
作者や編集者が想定したことになります。
読者の素養を低く見なしてる
ということにもなります。
だから、作者や作者は一般的には
注をあまり付けたがらない。
自分の本の読者は素養が高い筈だから。
編集者は、読者と作者の間の架け橋として
そこでどうするか葛藤する訳です。
古典の『源氏物語』ならば、
現代語訳でさえ、注釈がいっぱい
付くのは当たり前です。
微妙なのは現代の本の場合ですね。
私が漫画編集をしていた時は、
何かと注を付けたくなるタイプでしたが、
作家や作者に、この単語どうしましょう?
と質問すると、注をつけようとなるのは、
半々だったような気がします。
漫画にはあまり注はつけたくないと
考える漫画家。
分かりやすさを万全にしたい編集。
まあ、基本的には、
本文から推測できるなら、必要なし。
本文理解に邪魔なら、不必要ですね。
最近、昭和の本が文庫で復刻される場合
全体の6分の1が注ページ!なんて
文庫も少なくありません(笑)。
まあ、私はつい注をつけたくなる
タイプだったから「わかるわぁ」と
なるだけだし、
注釈ページだけを読むのも、
味わい深い暇つぶしになりますが、
今の若い一般的な読者はこうした傾向を
どう思っているんでしょう?
現代の書籍で、
注釈ページが全体の3分の1も占めたら
なんだか損をした気持ちになりそうですが。
注をこまめに色々と暗記していけば
クイズに強くなるかもしれない。
編集者がその単語は今は一般的には
理解されにくいと想定した訳ですから。
もしも古い本の復刻で、
まだ著者がご健在だったら、
きっと注は極力、減らしたでしょうね。
注を付けたくないのは、
知的ダンディズムなんですよね。