【描く】色気づくと、人はうまく描けないらしい!
『思わず客にウケ、
絶妙な「色気」が出て、
自分で自分を模倣し再生しだしたら
最悪』。
私はこの文章を読んだ時、
自分を模倣し再生し…、
というクダリに、
ハッとさせられました。
まあ、たかがブログ、
たかが無料noteです。
創作の達意とは
違いますが、
やはり、どこかで、
毎日、noteを書く時、
いちばんビュー数やスキ数が
たくさんもらえた記事を基準にして
書こうとしがちです。
自分を模倣し再生しようと
しちゃってました。
ちなみに、冒頭にご紹介したのは
朝日新聞の一面コラムで
鷲田清一氏「折々の言葉」。
8月29日掲載のもので、
書家・沢村澄子さんの
『書くということ』からの引用です。
沢村澄子さんの本を引用しつつ、
鷲田清一氏はこう記します。
「調整など考えず、
筆の動きが
その時々ものであり切ることが
肝心」と。
ライブ感を常に忘れてはならない、
ということか。
それにしても、、、、
note5年目にして、
だんだんマンネリ化してきたことを
痛感する日々だった私には、
耳が痛い話でした。
このコラムを書いてる
鷲田清一さんは有名な哲学者。
そんな人がこうした話を
引用したり整頓したりするのは、
鷲田さんでさえ、
どこかで、自分を模倣したり
再生しそうになる誘惑に駆られた
ことがあるからでしょうか…。
そういえば、偶然ですが、
昨日発売日だった
幸田文のエッセイ集『雀の手帖』
その冒頭のエッセイも
「色気」にまつわる話だった。
ご紹介させてください。
「多少なりと見よくしたいという
気がはたらくので、鉛筆の先へ
いろけが寄り集まったようになって
まことに困るのである。」
この良くしたさから転じて
生じてくるいろけなどは、
書くという本家本元のことにとって
まったく有害無益な邪魔ものである。
いろけがちらちらしていたのでは
鉛筆は動かない。」
幸田文も「いろけ」の有害無益さに
ついて確かに書いてある。
幸田文は、作家であり、
同時に名エッセイストでしたが、
それでも、こんなにも
良く書こうという色気から
自由ではいられなかったらしい。
いわんや、私のレベルでは
色気づいてしまっても、
まあ、仕方ないってことかしら?
なんだか気持ちが楽になりました。