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【誤読・精読】人は村上春樹作品をどれくらい正確に理解できているの?
村上春樹を母語として、
(おそらく)ニュアンスの機微まで
正確に読める時代に生きたのは、
幸せなことでした。
(ちょっと過去形)。
仮にもしも事情が変わっていて、
村上春樹が外国語を母語とする
作家であったなら、
誰か、翻訳家が訳したもので
味わうしかなかった訳ですよね。
そうなると、
1970年代の日本人が
多かれ少なかれ抱いてた、
大きな組織(社会)からの
逃走、自由の執念、憧れ、
それがムラカミ文学の骨子だけど、
そんな空気はうまく掴めただろうか?
そういう意味では、
同じ日本でも、
また、日本語を母語とする人でも、
1970年代の空気を
知っている人と、
知らない人とでは、
理解には差があるのかしら?
つまり、
90年代以降に、
昭和と大きく変形した日本に
生まれた人は、
日本語が母語でも、
組織に所属しないぞという
自由への憧れ?
逃走への執念は、
あまり感じられないのではないか?
また、翻訳された村上春樹でも
政府や国家の足カセが
強い国の人びとは、むしろ、
村上ワールドの骨子を
日本を知らないまま、
深いニュアンスまで理解して
読めているかもしれませんね。
いや、そんなことを言い出すと、
私自身、個人として、人間として、
果たしてどれくらい、
村上春樹という人間の本を
理解して読んでるんだろう?
実に疑わしい。汗。
活字中毒人の短所で、
自分流に、ひたすら何でも、
我流で読んじゃってそう。
読むということは
活字の塊をどんどん読み砕いていく
そんな風になりがちですが、
本当に作品がしっかり
100%理解できているのか?
たまには、疑ってみるのも
大切かもしれませんね。
まあ、読書なんて、
自分が好きなように読み、
好きなように味わうのが
いいんですけれど。
たまには虚心坦懐になるのも
必要かもしれません。
一度、春樹が好きな外国人と、
春樹について話をして
みたくなりましたね。
ぜんぜんイメージが
違ってるでしょうね。
それぞれの国では
それぞれの国らしく、
読まれていそう…。
私たちだって、
アメリカのポール・オースターや
イギリスのカズオ・イシグロ、
チェコのミラン・クンデラ、
コロンビアのガルシア・マルケスを
日本的にキャッチし、
受け取っているように。
村上春樹が
海外によく行くのは、
自分の読者が
どんなふうに読んでるか、
知りたいからなんでしょうね。
私が「読書会」が好きなのは、
いざ自分が抱くイメージを
誰かと話しあうと、
ぜんぜん違うからです。
それがはっきりわかるのは、
読書会のように
精読する機会がないと、
なかなか分からないんですよね。