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弱さと主体化について 論文

序章  教えることのジレンマを克服する

教育者、ガート・ビースタが提唱する「主体化の教育」は、学習者自身が如何にして教 育の場に主体として立ち現れ得るのか、そのために教育者は如何に「教える」ことができ るのかについての教育理論を展開している。それらは主に「中断」(世界と自分を出会わ せること)「解放」(批判的な省察によって世界の認識を創り変え続けること)「不和」(共 役不可能性を持ち込むこと)からなり、教育のジレンマ「教師の介入と、学習者の自由」 を抜け出すための「学習者の主体のために教える」、すなわち第 3 の教育の道を示すもの である。そのため、主体化の教育は、伝統的、もしくは現代的教育の対比からなる二元論 的な論争(生徒の自由か、教育者が教えることか)からの脱却を目指す本質的(そういっ た意味では伝統的な)、一方で先進的(今までにない、新しい)教育理論だと言える。
 なぜそのような新しい教育理論が生まれたのだろうか。我々は、生徒の自由と平等のた めに、その場を開くと同時にそれらを重んじた上で「教える」ということ、すなわち「主 体化のための教育」と聞いた時、そこには一定のある強度が存在することを感知し、それ らは「高尚」で「ハイレベル」な教育であると結論づけてしまう場合が多い。それは、教育における「主体性」という概念が、評価システムと統制の「内側」において、生徒が 「自立」し、「能動的」に活動することを意味してきたことに由来すると考えられる。そ の主体性は、規範から溢れず、適切に馴染むために、自ら行為するという従属的な概念と して認められ、こういった教育指針に対して批判的な論者の出現へと繋がりを見せた。例 を挙げるならば、苅谷剛彦は、自身の著書『教育と平等』において「自立した強い個人を 育て上げるためには、もっと自由な教育が必要だと考えられたのである」(苅谷 2009 p284)と述べている。これは、ミシェル・フーコーの著書『監獄の誕生』にて明らかにさ れたような、権力が、自らが生成する規範や道徳に従順で、自立的に行為する「主体」を 教育によって作り出すといった指摘と共有する要素が含まれている。故に、一部の批判的 な教育学は、主体的であることを周到に回避しようとしてきたのである。 しかし、主体性の教育を回避することは、教育の場において、学習者達を客体として存 在させ、ある意味で彼らの意思、言葉を看過し、過度な抑圧が生じるような事態に陥りか ねない。また、後に詳しく記述するが、ビースタが提唱する「主体性」とは、規範へ従属 的な個人の性質ではなく、批判的省察と応答責任からなる「現象」として理解され、共同 体からの脱同一化、⺠主主義的不一致を志向する概念として用いられるために、そういっ た教育批判的「主体性」とは異なる概念である。それは、いわばフーコー的な議論から 「主体性」を救い出そうとするのである。 そして、フーコーが指摘するような、従順な振る舞いができ、自ら能動的にそこへ収斂 していく「主体性」は、そのための諸能力、「強さ」を基盤にしたものとして広まりを見 せてきたとも言えるだろう。それ故、ビースタの「主体化」の教育理論も、一見、知能の レベルが高く、思考や判断が自己の内に発見し、表現する力の持つ(論理的思考といった、現在の教育システムで規定され、評価されているような)またはその余裕がある「強 者」には比較的容易に適用され、一方の教育システムに抑圧され、排除されている、未熟 であると評価されている存在、「弱さを持つ人」に関しては、彼らがその教育を熟すこと があたかも困難であるように認識されてしまう。しかし、本来の「主体化の教育」は、主 体として立ち現れることに近いように思われる人々よりも、そこから遠ざけられ、また自ら遠ざけ、弱さのうちに主体と自由を恐れる人々にこそ必要とされるものである。だとす るならば、主体化の教育は「高尚」であり、強者が強者たる所以によって昇華され、実を 結びうるというこの認識は、果たして正しい認識であろうか。これはつまり、「弱さを持 つ」人々を対象に、主体化の教育論を考えることは、実は主体化論そのものを組み替える 可能性が生まれるのではないかということである。主体化の教育は、「弱さを持つ人」と 共に歩むことは不可能なのだろうか。それらの認識がもしも誤りで、主体化の教育が弱さ と共に出会い、寄り添うことができるとするなら、それはどういった形で果たされるのだ ろうか。
教育システムや社会構造から抑圧され、排除される「弱者」が教育の過程を通してどの ように自らの道を歩んでいくのか、そこに教育は如何に寄与し得るのか。この問いは何も ビースタの「主体化の教育」理論に限られたものではなく、教育という営み全体を通して の課題であり、積極的に取り組むべき問題である。現在の教育システムを維持し、再生産 するための過程として教育の営みを捉えた上で「弱さを持つ人」と向き合うとき、そこに は彼らに対する様々な負の感情(生産性がなく、足手纏い、集団の秩序を乱すなど)が出 現し、抑圧の強化に繋がってしまう。しかし、教育の目的を「主体化」に置き、自らに世 界を出会わせ、批判的に省察し、十全たる人間になることとされる時、初めて「弱さを持 つ人」の人間としての尊厳、変えの無い他者、世界の構成者であることを認め、その中に 新しい可能性、力を見ることができるはずである。
本稿では、教育者ガート・ビースタの著書、具体的には『教えることの再発見』『教育の 美しい危うさ』『よい教育とは何か』『教育にこだわるということ』という4つの著書を基 に、主体化の教育と、現在の教育システムの中で抑圧され、自由を恐れてしまう「弱さを 持つ人」とが繋がるということ、その新しい可能性の有無と、詳細についての検討を行 う。
また、日本におけるビースタの先行研究は、桐村による「教育政策におけるエビデンス の在り方」(桐村 2019)や、安藤による「主権者教育における『学習化』をどう克服する か」(安藤 2023)などが見られる。これらは、ビースタが提起する教育の諸問題(エビデン ス主義、教育の学習化)を現代教育の流れに照らし合わせ、それらを如何にして乗り越え得 るのかという議論について検討を行なっているため、重要なものである。とはいえ、上述 してきた諸点に関する議論は未だ為されていないが故に、本稿では、ビースタの提唱する 教育理念と学習者の出会い、「弱さ」の繋がりに拘ることによって、新たな議論を持ち込 むことを試みる。

1章では、ビースタが主張する「世界の中で世界と共に成⻑した姿で存在すること」す なわち「主体」のための教育が如何なるものかについて記述する。2章では、彼が書籍 『よい教育とは何か』の中で記した教育の形式化の要因、説明責任、エビデンスの2つの 社会的変化の概念を用い、現代の教育システムがいかに「強さ」を求めきたのか、その排 他性について検討する。3章では、書籍『教育の美しい危うさ』にて記されている教育に まつわる創造とコミュニケーションの「弱い」解釈を基に、教育の「弱さ」と哲学者エマ ニュエル・レヴィナスによる「主体」が、如何に相互的に作用し得るのかについて考察す る。4章では、1章、2章、3章をもとに、本章にて記した問題、すなわち主体化の教育 と「弱さを持つ人」が如何にして出会い、世界の中に、替えの無い個人としてたち現れる のかについて分析し、自身の考察を述べる。

1章  主体を育む、教育理論

「よい教育とは何か」この問いに向かい、考察し、教育実践の場面毎に省察し、行為し ていくためには、教育に対するどのような理解が求められるのだろうか。そして、「よい 教育」の中に、学習者の主体化を目指すことが含まれ、そのために教育者が「教える」と いうことが可能であるとしたら、それは如何なる概念によって営まれる教育の過程なのだ ろうか。1章では、これらの問いに対してビースタが、彼の書籍で展開している教育の3 つの側面と、主体化の教育(中断、解放、不和)とその実践例について記述し、その応答 を試みる。また、人間の主体性とはどのように立ち現れる「現象」であるのか。哲学者で あり、政治学者でもあるハンナ・アレントの論理を用いたビースタの主張を元に、複数性 に基づく「主体」、世界の中に現れる活動的行為と「自由」という概念について記述する。

第1節  教育の三つの側面 (資格化、社会化、主体化)

教育学者ガートビースタは、彼の書籍『よい教育とは何か』の中で、教育の主要な役割 を「資格化」「社会化」「主体化」の 3 つに分類している。
資格化とは、知能や技能、その他コンピテンスの獲得に由来されているものであり、現 在の学校教育の中核をなす役割と言っても過言ではない。それは、様々な能力(知的能 力、論理的能力、社会的コンピテンスなど)の獲得、つまり、広義的な意味においての 「資格」を有することを表している。ここにおいては、生徒の諸能力を高めるために教育 者はその技法に思考を凝らし、成果を判定するための試験を定期的に実施し、数的指標を 用いて評価する。この一連の公教育的な営みの大部分は、ビースタが提示する資格化機能 に含まれている。
社会化の機能とは、既存の社会に対する「新参者」(無知で、学習するべきとされる者 や、移⺠など)を教育によって社会秩序、社会集団の中に組み込んでいくためのものであ る。これは、現存する社会システムへと正しく新参者を組み込み、社会がその参入を歓迎 することによって、ある意味で社会システムから排除されない存在として、彼らを教育す ることが目的となる。また、この根底には既存の社会システムを維持し、再生産するとい うことがあるため、善も悪きも既存社会の維持の域を超えるものではない。
最後に主体化の機能であるが、これは、社会化とはある領域において矛盾し、対の方向 を志向する。すなわち、人間個々人の尊厳を出発し、社会の構成員としての一人ではな く、世界と個人の省察、弁証法的作用による個人を目指し、より十全たる人間として存在 することが目指されている。ここでは批判的意識がその中核の一部をなしているが故に、 最終的には、社会の既存システムの再生産ではなく、それらを更新、代謝を促し、変革し ていくための力を持つ。
ビースタは、これらの側面について「何がよい教育を構成するのかについての議論に 我々が関与するとき、我々はこれが複合問題だということを認めるべき」(Biesta 2016 p.32)だと述べている。つまり、教育の場面において刻々と現れ、消え、繋がりゆく事象 は、この 3 つの次元、それぞれにおいて作用しており、相乗作用も起こりうれば、葛藤や 相殺も起こり得るという事実で在り、それが複合問題だということである。伝統的な科目 教育によって資格化を目指すことは、同時に生徒の社会化を引き起こす一方で、主体化の 次元においては消えゆく(逆もまた起こり得る)潜在可能性が常に存在する。その中で、 教育の目的を何処かに据え、その目的に対して変化がどの次元で起こっているのか、その 見極め、恐れの伴う価値的判断が、その場、その人にとっての「よい教育」生み出し得る ということである。さらに、教育者が専門職として認められる所以はこの「判断」におい てであるともビースタは主張する。流動的な教育の営みの中で、その目的を場面毎に設定 し、絶えず判断し続けていく。その過程こそが「よい教育」を創造することができる教育 者の専門性なのである。

第2節  主体と複数性、自由

教育の3次元の1つである主体化の「主体」とは具体的にどのような現象を表す言葉で あろうか。ガート・ビースタは、主体であることとは「―自己と同一であるということー を意味するのではなく、むしろ自己の『外部』に存在することであり、世界を志向して 『外へ向かい』世界のうちに『投げ出される』ことなのである」(Biesta 2018 p.16)。ま た、世の中に存在するということは、出生の事実をその始まりとしているのではなく、 「私たちの言葉や行いを通して、私たちは絶えず、新たな始まりをこの世界の中にもたら す」(Biesta 2018 p.17)とビースタはハンナ・アレントの思想を基に主張する。これは、人 が何かを行為して初めて、私たちは世の中に存在し始め、さらに行為を断続的に行うこと によって、存在し続けていることを意味する。つまり、「主体として存在する」ことと は、この世界に生まれ落ちるという事実ではなく、自分の外側、他者、世界に対して何ら かの行為(語りかけ)によって、世界と出会い、立ち現れる「現象」そのものだというこ とである。これは、人間は単独の個人では決して世界に主体として存在することはでき ず、それは決定的に他者による「複数性」に依存する概念だということでもある。さら に、主体としての現象に複数性が必要不可欠だという事実は、行為することは世の中に存 在することの半分でしかなく、もう半分は周囲の受け手によって齎されることも意味して いる。それは、私たちの始まりがどのように到来するのかということは、「まったくもっ て他者が私達の始まりを引き受けるのかどうか、引き受けるとしたらどのように引き受け るのかに依存する」(Biesta 2018 p.17)からである。自らが世界に向けて能動的に働きか け、その結果の応答を受け取り、省察し、考え、そしてまた世界に向けて働きかけ続ける 存在であること、それが「主体」として世界の中に存在することなのである。
 また、ハンナ・アレントは、自身の著書『人間の条件』の中で、「活動的生活」 (Arendt 1994 p.2 )すなわち、人間の行為を、「労働、仕事、活動」(ibid p.2)の三つに分類 する中で、人間の自由とはこの「活動」(社会的行為)の中に現れる「公的空間の中に新 しい何かを持ち込む」自由として理解されている。ここにおいての自由は、自己の意思決 定、決断の自由(Free)ではなく、極めて社会的な、複数性の中でのみ生じる「自由」 (Liberty)の概念である。それは、人間の主体による行為が他者によって受け取られると き、その受け取り方を思いのままに操作し、自由を制限しようと試みること(すなわち複 数性を減少させ、恣意的な画一化を目指す)は、自身の自由をも消滅する恐れのあるもの であり、それらは連動し、相互的に関係しているのである。つまり、主体として立ち現れ ること、世界の中に新しい何か持ち込むことのできる「自由」、それらは世界や他者によ る複数性を必ず必要とし、「意のままに操ろうとする」ことによって消滅する、二重性の リスク(意のままに操らないリスクと、自由と主体の消滅のリスク)を孕んだ概念だとい うことになる。

第3節  中断、解放、不和

現代的教育(能動的、問題解決型)と伝統的教育(銀行型、知識注入型)のどちらでもな く、壇上の賢人でも支援者としての教育者でもない第 3 の「学習者の自由、主体化のため に教える」ことは、学習者と世界を出会わせ「世界の中に、世界と共に成⻑した姿で存在 する」ことを目指すものであり、そこでは教えること、すなわち教育的介入は「中断」 「解放」「不和」という概念を基に営まれる。
「中断」とは、自身の欲望や思考、行為と世界の語りかけを出会わせるために起こる、 思考や行為の断裂である。世界と共に成⻑した関係を結ぶことは、世界の多様性と統一性 を認められるようになることであり、それは、自身の欲望や思考を、世界が何を望み、何 を求めるのかという語りかけに照らし合わせ(弁証法的作用)、自身を抑制することな く、私たちが望むものが社会と私たちにとって望ましいものなのかについて点検すること で果たされる。さらにこの中断は「継続」されなければならない。思考や行為の中間地点 で世界と出会い続けること、この中間点に学習者が留まり続けるように介入すること、問 いかけることが、教育者には求められるのである。つまり、ここにおける教育者の仕事の 殆どは、生徒が自らの欲望に出会い、欲望を吟味し、選択し、変更し続けることのできる 場所と時間、空間を確保することだと言える。
「解放」とは、今、目の前に自身が「現実」として捉えている世界を「批判的」に省察 (真正な省察)することであり、主体化のプロセスとして位置付けられる。それはまさに 現実のヴェールを剥ぎ、それについての知識を最創造し続けるようなことであり、すなわ ち、自らの知見、思考、視野を更新し、認識を改め続けることこそが、自らをあらゆる抑 圧から解放し、自身の歴史の主体として学習者を立ち現すために作用する。
「不和」とは、教育者が、学習者の「世界と共に成⻑した姿の主体」であるということ に関心を払い、それを目指した上で、彼らの可能性として見通し、予測し、計算すること が不可能な「共役不可能性」を持ち込むことである。それは、自己の内部から産婆術的に 引き出される「学び」ではなく、自己の外部から到来し、自己を超越するものを「教え る」こととして記されている。また、その目的は、学習者のコンピテンスの獲得ではな く、あくまで「主体として世界に立ち現れる」現象自体である。ここでの教育者の役割 は、他者の語りかけ、応答責任の伴う「顔」(より抽象的な意味で、諸概念の集合の様 な)に学習者を出会わせ、自らの応答の自由を行使すること求めること、そして学習者に 対し、彼らの「主観的真理」(Biesta 2021 p.72)になり得るものと、それを彼らが真理だと 認識するための諸条件を「啓示」のように教えることである。他者の他者性による「共役 不可能な要素」(Biesta 2018 p.129)を持ち込むこと、学習者にとっては不都合かもしれな い主観的真理を教えようと試みることは、不和の教育の根幹をなし、それはまさに学習者 が主体として世界に立ち現れる瞬間を齎らし得る。
これらの教育理論を実践するとき、教育者に求められることは知識についての「説明」で はない。知識やコンピテンスの獲得を目的とし、教育者の説明を必要としてしまった時、そ れは主体化の教育ではなく、学習者を客体とし、社会化、資格化に重きを置く現代教育に見 られるような「一致としての教授」(Biesta 2018 p.138 )として作用し、教育者と学習者の不 平等(知識を伝達する者とされる者)を再生産してしまう。そうではなく、教育者は学習者 との間に「平等」で、生徒が自らの「自由」と出会う場を始め、教育的相互作用の中で、問 いかけからなる応答責任によって学習者の自由を行使させ、彼らが主体として立ち現れる 可能性を開くのである。

第2章  教育と強者

1章では、教育者ガート・ビースタによる教育理論、主体化を目的とした教育について示 してきた。2章では、彼の書籍『よい教育とは何か』の内容で触れられているエビデンス 主義と、説明責任の概要、その社会的背景について記す。ビースタはこれらの概念を、主 に「教育の望ましさ」についての議論を置き去りにしていくものとして著書の中で触れ、 批判的に検討している。しかし、これらの概念は同時に、教育があらゆる学習者に「強く あること」を求め、その排他性を強める要因となっているのではないだろうか。末節で は、ビースタが著書では触れていない「強さと排他」に関するこの問いについて、「エビ デンス主義」と「説明責任」の概念を基に自身の考察を述べる。

第1節  教育のエビデンス主義

教育の分野とその営み全てが「エビデンス」に基づいたものであるべきだという考え方 は、最近では世界中のいくつかの国々で目立つようになって来ているとビースタは主張す る。エビデンスに依拠するということは、教育研究の妥当性と教育実践の間に技術的合理 性が取れているかどうかということである。エビデンス主義に賛成する者達は「医療、農 業、運輸、技術」といった領域での、20 世紀を通して我々の経済と社会の成功した側面を 特徴づけてきた、⻑い年月の間の進歩的で体系的な改善の性質」(Biesta 2016 p.44)を生み 出してきた性質、パターン、つまり科学的合理性に基づいた実践を行うということを、教 育の分野においても見習うべきだと強調している。彼らの主張は「医療、農業、そしてそ の他の分野において並外れた進歩が生じた最も重要な理由は、実践がエビデンスを実践の 基礎として受容したこと」(ibid p.44)と示唆している。
 ビースタはその批判として、教育の特殊な非因果性と、実践に伴う倫理性・道徳性に よって、エビデンス至上主義に異議を唱え、その主張を展開していく。彼によれば、エビ デンスに基づいた実践の根底にある概念はまさに「効果的介入」(ibid p.47)というもので あり、これは教育の効果性に関する研究とそれに伴う専門的実践の因果律モデルに依存し ている。つまり、効果的介入とは、原因を生み出す介入と、それによる成果との間に確実 で直接的な関係が存在することを前提としている。しかし、この「効果的介入」(ibid p.47)はあくまで教育的帰結に対しての道具的な概念でしかなく、教育にとって最も重要な 「何のために効果的か?」という疑問、すなわち教育の目的について対応するものではな い。 また、ビースタ曰く、エビデンスに基づいた実践は、その専門的行為の手段と目的が明確 に分離されている。ここでは、専門的行為の目的は所与のもの(作業効率を上げる、生産 性を高めるなど)であり、問われる唯一のことは、実現のために何が効果的で、能率的 か、ということになる。この前提は、医療や工業の分野においては妥当と考えられる一方で、教育という分野に単純に適応されるものではない。それをビースタは、2つの根拠を 用い、論を展開する。先ず、第1に、教育は象徴的に媒介された相互作用のプロセスであ るため、因果律的なプロセスそのものと同じ形式をとらないということである。教師の活 動を介入ということもできるだろうが、それは原因ではなく、生徒がそれに対して応答す るための機会であり、そして彼らの応答によって初めて、何らかの学びの機会として現れ るものとして考えるべきである。第2に、教育の目的と手段は内的な関係を結んでいるこ ともある。教育実践で用いられる手段は、それによって達成することを目指す目的に中立 的、外的に隔てられているのではないということである。教育とその実践において、教育 者はどのような手段も「その手段が生み出すゴール」に、質的に寄与する、すなわち「効 果的である」というだけの理由で安易にその手段を用いることはできない。例えば、いく ら教育実践を円滑にし、社会性や知的能力を向上させるために、懲罰制のような暴力的、 支配的行為が「効果的」であったとしても、その手段は最終的な教育的帰結に何らかの歪 みを生むだろうし、倫理的・道徳的にも決して望ましくないということである。つまり、 教育とは工学的で直接的な因果律による営みではなく、道徳的な実践形態をとる営みであ り、そのおそらく全ては精査による戶惑いや葛藤が付き纏い、状況によって常に変化し、 「教育的に望ましいもの」という価値的判断が手段に対して求められるものなのである。

第2節  説明責任の転化

教育が本来の本質的、⺠主主義的可能性を有する考えから、「一連の手順」(Biesta 2019 p.69)として形式化してしまった背景には「説明責任」(ibid p69)という考えの広まり と、その解釈の転化が存在するとビースタは主張する。「説明責任」に関する言説は、一 般的に解釈される「~へ応答可能であること」(ibid p.69)と、より狭義的な、経営的意味 において「監査可能」(ibid p.70)の2つに分けることができ、チャールトンは経営的使 用に伴う監査の目的が「金銭処理における無能や不正を見抜いたり防いだりすること」 ibid p.70)だという財政的且つ厳密な流れの中に、この言説に関する歴史が存在すると示し ている。さらに彼は、「透明な組織は監査可能であり、そして監査可能な組織は管理しや すいーそして逆も真なり、したがって、組織は監査可能にされなければならない」(ibid p.70)という論に関して、監査プロセスの要求に適応させるよりもむしろ、説明責任の文化 は、実践が監査プロセスの原理に適応し、迎合しなければならない状況にあると主張す る。これは、組織とその実践のための監査プロセスという論理ではなく、監査プロセス、 すなわち説明責任のための実践というように、ある種の逆転現象が起こっているというも のである。この説明責任による形式を重視する経済的な現象は、社会イデオロギーの変化 (新自由主義と新保守主義の高まり)やグローバル資本主義の高まりなどの背景と重ねて考 えられ、それらは独立しつつも、互いに作用し、強化しあう関係にある。この変化によっ て国家と市⺠の関係に見られる関係性の再配置は、内容的な関係性から完全に形式的な関係性へ、すなわち、政治的な関係性(共に共通善に関心を払う政府と市⺠の関係性)では なくなり、経済的な関係性(公共サービスの提供者としての政府とそのシステムの消費者 としての納税者)へ移行したということを表している。
ビースタによると、こういった社会的変化は教育の分野に関しても、全く同様に影響を 及ぼしているという。つまり、教育が政府によって提供されるサービス(納税者の金銭に よって施されるべき公共のサービス)として扱われるということである。それによって、 教育実践はその効果性と効率と、その説明と社会による監査にのみ焦点が当てられ、その ようなプロセスがどんな結果をもたらすべきなのか、という教育的望ましさ、目的につい ての吟味、議論が欠いている状態に陥っている。そして、ビースタが指摘する、これの更 なる問題は、説明責任の文化の中で多くの人が、第 1 の言説である「公衆に対して説明可 能であること」(ibid p.78)を望んでいる一方で、実際には第 2 の言説に由来する「監査者 に対して説明可能であること」(ibid p.78)についての運用が進んで行われてことに由来し ている。そして彼曰く、これは皮肉にも、公共サービスの消費者(学習者や保護者など)に とって有害な帰結をもたらし得る。例えば、学校が高い試験得点に応じて何かしらの報 酬、利益を受けるのであれば、学校は徐々に「やる気のある」保護者と「できる」生徒を 惹きつけようと試み、困難な生徒や家庭を締め出し、排除する方向に舵を取るだろう。ビ ースタは、「究極には、もはや学校が生徒のために何をすることができるかということは 問題ではなくなり、生徒が学校のために何ができるかということが問題となる状況に帰結 する」(ibid p.79)と警鐘を鳴らしている。
「我々は、最終的にはシステムや施設や個人的な人々が説明責任の論理の命令に自らを 適応させる状況へと取り残される。その結果、説明責任は他の目的を達成するための手段 というよりむしろ、それ自体が目的となる」(ibid p.80)
説明責任とは、第1の言説的な意味でその言葉を解釈した時、教育が⺠衆に対してその 目的と実践に関して説明可能であることは、より⺠主主義的な決定を促す可能性が少なく ない。それは「開かれた」教育の始まりであり、その分野に子どもたちや保護者、地域の 人たち、他者による介入と議論を可能にするために作用する。しかし、この説明責任が第 二の言説による解釈を辿ると、それは監査されるべきものであり、また、監査に対応でき るように恣意的に変形されたものでなければならない、という事態を招きかねない。それ は、⺠主主義性を不可能ではないにせよ、困難にするだろう。この時、教育の目的と実践 に関する議論は閉ざされ、監査基準(偏差値、品行方正など、「強い」状態)のための効 率、効果についてのみが需要視される。監査される教育機関は、監査可能で優良な見せか けの形式を重んじ、それに当てはまらない要素、人々を排除する方へと向かう可能性が高 い。

第3節  強者を目的とした教育と排他

ここでは、1、2 節で示してきたビースタが『よい教育とは何か』で提示した教育の諸問 題(エビデンス主義・説明責任)を基に、それらが教育において如何に、学習者が「強 く」在ることを求め、また同時に、排他性を強化して来たのかについて、自らの考察を述 べる。
エビデンス至上主義が教育の現場に求められ、まさに適用されようとしている背景に は、徹底的な教育的成果の希求と、そのための経済的、効率主義的な要素が存在している と考えられる。つまり、効率的な成果を学習者に対してもたらし、知識や知能、合理性、 能力といった、社会(往々にして経済と紐づけられる)に求められる「強者」を生み出す ためだけの「生産」システムとして教育が捉えられているということが、決定的にエビデ ンス至上主義を後押ししているということである。そもそも、経済的理論、市場原理の肯 定は、欲の拡大や経済的成⻑、もとい、生活の利便化、合理化によるある種の快楽によっ て担保され続けている。これらのことは、「成⻑」という所与の目的を達成するための 「効果的手段」が、研究とその成果によるエビデンスを必要とすること、つまり、ビース タが示しているように、「実践が、エビデンスを実践の基礎として受容する」(Biesta 2016 p.44)ことを基盤としているのである。このような理論に教育が曝されたとき、教育 は、学習者の技能的成⻑、つまりは本稿で定義するところの「強者」を生み出すことこそ が目標として認識され、生産性とそのための能力が高く、現存社会に適応的な人間を生み 出すことが教育の最上命題とされる。
また、説明責任における2次的な解釈への変化と、教育の関わりに関しても、その帰結 として教育が、「強者」を求めるシステムとして機能してしまうといった問題が見られ る。説明責任がより開かれた、⺠主性を内包する概念から、監査者によっての行われる監 査に対して説明可能であることを意味し、作用し始める時、教育はその本質を失い、空虚 な形式だけが強化され、それに適さない手段、実践、さらには適さない人々を排除し始め る。現代において為される監査、それによって求められる主要な要素はおそらく「社会 (システムの維持)にとって有益であること」であり、それは学業成績や試験の点数とい った常にスコアで置き換えられる、偏ったコンピテンスに関連づく。資本主義的な社会構 造を基に、グローバリゼーションや情報産業の革新による国家間の「生産性」や「価値」 の競争を優位に進めるためにも、監査はあくまで「強さ」を教育に求め続け、能力や意 欲、生産性の低い「弱さ」を遠ざける。監査可能性を求める説明責任は、このような原理 によって社会的強者と弱者を分け隔て、後者を排除することによってその特性をより強化 し、その排他性はより広がりを見せるのである。
エビデンス至上主義は、教育をその経済的理論に基づく「生産」過程として設置するこ と。説明責任は、社会的価値による「監査に適した教育であること」を求めること。それ ら2つの事柄はどちらも「社会に有用な強者」を求め、作り出すことが教育の果たすべき機能であり、そこから溢れる者、すなわち「弱者」を排除するものである。それは、現代 における教育の理念、その営みは常に強者を求め、弱者を忌み嫌う傾向に在ることを意味 するだろう。「成⻑」と「拡大」を無闇に求める社会、そこから生まれる価値観は、常に 我々個人に「強くあれ」「有用であれ」と語りかけ、さも世界の理であるかのように求め 続ける。それは不平等と不自由、抑圧を生み、維持のために再生産し、拡大する「生きづ らさ」そのものであり、永遠の排他、排除を輪廻のように巡り続ける。

第3章  「弱い」教育

本章では2章で論じた教育の「強さ」とは対照的な、教育(創造、コミュニケーション) の実在的で「弱い」解釈について、 ガート・ビースタの書籍『教育という美しい危うさ』 に基づき記述していく。さらに、開かれ、危うさ、リスクの伴う教育の「弱い」解釈が、主 体性が生起する教育の場にとって如何に重要であり、どのような繋がりを見せるのか、これ をビースタは、哲学者エマニュエル・レヴィナスの「応答責任」の概念を用いることによっ て検討しているが、その点について注視していく。また、末節においては、「弱い」教育が 何によって、誰によって始められるものなのか、主体化の教育の特性を踏まえ、自身の考察 を述べる。それは、権威か、もしくは小さな個か。

第1節  創造

教育とは何らかの教育的帰結(成果)を「創造」する過程、営みであると考えられる が、ビースタはジョン・カプート『神の弱さ』を基にした創造の意味解釈から、教育の 「弱さ」を導き出そうと試みる。書籍においてビースタは旧約聖書の神である、絶対的、 全能的力によって無から有を、闇から世界を「創造」した「ヤハウェ」(強い、形而上学 的な創造)と、既存している世界の中に「命」という意味を与える、有から善という方向 を示すという創造(弱い、実在的なアプローチ)を行なった「エロヒム」を引き合いにだ す。創造の弱い解釈とは、既に在るものに「美しい、善い」ものとして確認し、意味づけ を施すことである。それは創造者が、自身の創造物が自らの内部から離れ、独立したもの として存在し始めることに伴う危うさ、リスクを背負うことによって初めて為されるもの であり、全知全能によって為される営みではない。
全知全能のような制約の「強い」教育は、創造物が「個」として出現し始めることに伴 うリスクを嫌い、それを最小限に止めようとするため、強い制約を課す。故に、自律した 大人ではなく、永遠の子どもを創造するにとどまる。それは、不平等の再生産であり、制 約される学習者は、教育者の前では永遠に学習者となってしまうのである。一方「弱い」 創造による教育、リスクを背負う創造の営みは、平等から始めようと試みるために、不平 等の再生産として作用するものではない。エロヒムは、創造することに関する危うさに対 する覚悟と、無条件の信頼を有している。
「出産のようなリスクを伴う事象であり、もしそうしたことに関わるつもりなら、多く の騒動、不平、抵抗、平穏があれことと見出される事態を覚悟しなければならない」 (Biesta 2021 p15)
故にエロヒムは、結果として自分自身に似た成熟した存在を創り出す。それらは「悪な のではなく、ただ流動的なだけである。それらは邪悪ではなく、ただ扱いにくいだけであ る。それらは悪魔的ではなく、ただ未定型で柔軟で無機動なだけである」(ibid p.19)
すなわち、教育的創造を行おうと試みる人たちは、多くの良い親(エロヒム)と同じよ うに、子どもたちの予期不可能性、愚かしさ、破壊的性質にうまく対処することを学ぶ必 要があり、それは決して全知全能的な力、不平等に依拠する「強さ」をもってして制約 し、リスクを消滅させようと行為することはできない。ここにおいて創造とはまさに既に そこにあるものを「美しい、善い」ものとして確認することであり、それは開かれ、危う さに満ち、リスクを背負う「弱さ」として解釈される。

第2節  コミュニケーション

教育という営みの殆どは、口述、記述であろうと、言語、非言語であろうと、そこには コミュニケーションを通じて行われると、ビースタは『教育という美しい危うさ』の中で 記している。とりわけ、今日における教育的コミュニケーションの成功における解釈は、 「情報が変質されたり、歪曲されることなく、ある場所からある場所へと運ばれる」 (Biesta 2021 p.34)つまり、情報をもつ者から、持たざる者へその情報が変質することな く伝達されることだと言える。
しかし、ビースタは人間のコミュニケーションを考える上で、一つの地点から一つの地 点へ情報を運ぶというものでは不十分であると論じ、それはむしろ「意味と解釈の過程と して理解される」(Biesta 2021 p.34)べきであり、「本的に開かれ、失われる過程」(Biesta 2021.p34)、弱く危うい過程であると主張する。それはつまり、不平等(情報を持つ者と 持たざる者)による行為ではなく、意味解釈を共に、相互的に行う者同士の関係、すなわ ち、平等に基づく営みだということを意味している。ビースタは、意味と解釈の過程につ いて、デューイの哲学を用い、コミュニケーションとは「A さんの動作と音声について B さんの理解は、彼が A さんの立つ場から事物に応答すること」(ibid p.36)つまり、「事物 を、自己中心的に解釈するのではなく、A さんの経験における扱われ方を解釈すること」 (ibid p.36)としている。それは、意味に案内され、意味を生成する過程としてコミュニケ ーションを認めているということである。また、弱い解釈でのコミュニケーションと教育 に関して、デューイは教育という営みを「共通理解への参入を保証するコミュニケーショ ン」(ibid p.38)と主張する。それは、人々が共通の活動を分有し、その参入した活動の帰 結として自分たちの理念や感情に何らかの変化をもたらす営みであり、教育者と学習者が 共に行為し、常に変容する潜在可能性、「弱さ」をもったアプローチなのである。

第3節 「主体性」と弱い教育

ビースタによると、主体化の教育にとって特に重要なことは教育を受ける者が「主体で あること」の尊重であり、当然のことながら、教育者が「教育的努力を向けている相手を 客体として捉えるべきではなく、自立した主体として、行動と責任の主体として」(Biesta 2021 p.22)捉えるべきである。故に、その確実性を教育者が希求することは、この教育が 困難に直面することを意味する。我々教育者は主体化の教育を施すからと言って、学習者 達に応答を強制することは不可能であるし、それについての道徳教育が成せるということ でもなく、それについての勘違いをするべきでもない。教育者がそのような、主体性の希 求に基づく実践を行うことは、応答性や主体が生起する自由を奪うことになり、その特性 を本質的に無視し、欠損させるものとなる。ビースタは、レヴィナスの哲学を用い、「主 体性」がどのように実存するのか、より正確に言うのであれば、人間の「主体性」はどの ようにして可能か、それはどのように現れ、表出するのかと言うことに関して、「応答責 任」という概念によって示している。
「応答責任とは、私一人に義務として課せられているものであり、人間として、私はそれ を拒絶できない。この命令は唯一性という究極の気高さである。私に応答責任があるとい うこと、私は交換不可能な私であること、それのみによって私は私である。私は、自分を 他の誰の代わりにもできるが、誰も私の代わりにはなれない」(ibid p.27)
つまり、応答責任は確かに個人がそれに曝されることを拒絶できるものではないが、そ れはあくまで語りかけであり、対する返答の内容(端的には、はい、か、いいえ、か) は、他人に強制的に押し付けられるものではなく、自分で導き出すものの領域を超えな い。故に、主体性による表出もまた、やはり教育者が学習者に、強い形而上学的な力によ って、強制し、同時に制約できるものではない。それは、リスク(応答責任に対して望ま しく思われるような回答を示さない)に満ちた、開かれた、と同時に他者の他者性を重ん じる教育的営みなのである。

第4節  「弱い」教育を始める

本節では、教育的弱さ、開かれた主体化の教育学が誰によって始められる営みであり、 また、「強さ」を求める教育が蔓延る現代の社会で、それが如何に発動し得るのかという 問いについて、これまで記述してきた教育の特性を基に、自身の考察を述べる。
「主体化の教育」は、人々の批判的省察による解放と、世界の中に、世界と共に成⻑し た関係を築くこと、すなわち、自己と世界の弁証法的合一から自らの行為を決定する、十 全たる自己を志向するものである。それは、ある意味で社会秩序の外側にある事柄に目を 向け、⺠主主義の基本原理(不一致や対立)を基に権利を与えようとする試みであり、批 判的省察による脱同一化によって絶えず試み、実践され続ける。これは、「弱い教育」にまつわる諸活動を始めることが可能なのは一個人、もとい教育者によってである、という ことを逆説的に意味する。なぜなら、それは政府や省庁、または、力ある個人の「権威」 によって形成され、集団によって拡大される制度、社会秩序、常識を批判的に捉え、ある 意味で反することがその教育の目的であり、同時に行為自体だからである。よって、権威 がその教育を本質的に推し進め、教育的制度の名の下に、為すべき事柄と評価軸をリスト 化し、広く文化として浸透させていくことは、権威自体を危険に晒すことになるがため に、それは困難を極めるのである。 また主体化の教育で、学習者個人に教育者自身が他者性による「顔」(共役不可能な諸 概念、主観的真理の総体)として出会い、3人以上の社会ではなく、2人の関係性によっ て、代替え不可能な応答責任を生じさせ、主観的真理を「教える」ことは、「個人間の関 係」の相互作用でのみ始められる。それは、教育者が代替え可能な「教育者」としての言 葉を話し、代替え可能な「学習者」に情報を正確に伝達することではない。そうではな く、教育者が自らの主観的心理、「私が生きて死ぬために欲する」真理(Biesta 2021 p.72)を持つ、代替え不可能な自己として学習者と出会い、語りがけ始め、それによって 学習者も、代替え不可能な「彼」(彼女)として「弱い」教育の場に参画し、教育者と出 会い、相互の関わりの末に「教えられる」ことである。 これらのことから、主体化の教育は、権威を持つ何者かによって作成される教育的な 「宣言」によって始められるものではなく、教育的思慮深さによるわざ(価値的判断)を 持ち、学習者の「主体化」の次元に拘り、自由と平等の場を、複数性の尊重によって始め ることのできる教育者個人が、彼が営む教育的諸活動の中で意識的に始めることに掛かっ ている、と言えるだろう。
だが、一方で、日本における大学を始めとする高等教育機関の様な、「批判的意識」 を、学問を通して学習者へと一般化していく「権威」の存在も認められる。そこでは確か に、教育的営みの中で「批判的思考能力」なるものを会得するために、学問的働きかけが なされ、それを通して学習者達は「疑う姿勢」、省察することを学んでいるだろう。これ は、権威がどこまで「批判的」であることを人々に求め、受容することができるのかによ って、「主体化の教育」が社会の中で発動し、一般化していくことが可能か否か、が決定 づけられることを示唆している。つまり、「弱い」教育は、教育者個人によって始めるこ とが重要ではあるが、その広がり、普遍化については、権威が批判的意識の必要性を認識 し、「弱い創造」に伴う、開かれ、危うさに満ちたリスクを背負うことによって成されて いく、ということが考えられるのである。

第4章  教育は「弱さ」と共に歩む

これまで、教育が如何に「強さ」を求め、そこから溢れる人々を排除し、「弱さ」を生み 出してきたのか。そして一方で、本来、教育的営みが開かれ、あやうさの伴う「弱い」解釈 と、それらが主体性に齎す影響について記述し、検討してきた。4章では、序章によって記 した問題意識、「主体化の教育は高尚であり、強者にこそ熟され得るものとして捉えられて しまう」ことに立ち返る。主体化の教育が「弱さ」と共に繋がり、歩むためにはどのような ことが必要とされているのか。そして正に「弱さ」の中にこそ、学習者が主体として世界と 出会い、「生きる」ことの可能性があるのではないか。実は、弱さを持つ人ほど主体の出現 に近いのではないか。これらの仮説を基に、自身の考察を示していく。

第1節  主体化の教育はなぜ「高尚」か

主体化の教育が、教育機会と環境に恵まれ、能力的、評価的にも優れた「強者」にのみ、 それが熟され得ると予感するこの思考、つまり、主体化の教育を高尚で、ハイレベルな教育 であるという認識はどこから生まれてくるのだろうか。序章では、フーコーによる「従属す る主体性」の概念と「強さ」の繋がりを取り上げ、この疑問に対する応答を端的に示した。 本節では、その問いに関して、上述した観点から視点を変えることにより、更なる考察を試 みる。
主体化の教育は「高尚」である、と予感する理由は、私たちの平等と自由に対する解釈、 もっと言えば、競争と強者の理論による社会化と、そのための一致としての教授、資格化の 影響を常に受けてきた人々の、平等と自由に対する偏った解釈によるものだと考える。競争 の理論の中では、平等や自由は限られた勝者のみが享受できる「状態」であり、それは誰か より優れ、人の上に立つときに到達し、入ることのできる場所のように捉えられる。つまり、 有する資産が多ければ自由、知識が多ければ自由、そして、その自由な人の間でのみ平等が 行われるという解釈である。だからこそ、自由や平等の場を必要とする主体化の教育は「高 尚」であり、「ハイレベル」として認識される。自由に自身の思考を巡らせ、行為によって 主体として世界に立ち現れることは、恵まれた人々、抑圧する人々、勝者、本稿でいう「強 者」が、強者たる所以によって為されるように予感してしまうのである。しかし、限られた 「ハイレベル」な人のみが権利を持ち、始めることが可能になるのは平等ではなく、「対等」 (等しい水準や立場を前提としている概念)の様な関係性であり、それは人間の価値をあら ゆる「機能」(諸条件が紐づけられることも多い)で捉えるということを基盤としている。 これは、平等の概念とはおそらく異なるものであり、過去のアテナイにおける⺠主主義の様 式に見られるだろう。だが、平等とは人間の諸機能と、それによって規定される役割によっ て始められるものではなく、一人の人間が世界の中に実存すること、そして、それは絶対的 に他者の存在に依存するという事実に基づく。つまり、一人の人間が生まれ、行為する自己として生きるためには、それを受け取る他者が存在しなければならないという事実と、それ による他者尊重によって、平等の始まりが齎される。故に、人々が思い描く対等のそれと、 平等は同一視できるものではないと言える。
また、教育は何らかの「成果」を生み出さなければならない、という教育の目的に関する 認識によって、その予感が引き起こされるという考察も可能であろう。教育が行われるとい うことは、それによって齎される、社会的価値の高い帰結、例えば、学力の向上、社会秩序 への順応などのコンピテンスの獲得が達成されなければならないという考えは、自動的に 教育を受ける者の「質」を重要視し始めてしまう。つまり、主体化の教育によって、主体的 な意欲を獲得し、自ら学習へ向かい、知識やその他諸能力を向上させ、さらにその効率性を 高めていくという帰結を生み出さなければ、教育的営みには価値がないと思い込むが故に、 その教育は様々な側面で恵まれ、能力が高い「強者」の方が適し、そうでない「弱者」では、 それらの帰結は生み出すことが難しいように思えてしまうのである。しかし、このようにし て、主体化の教育とその目的を解釈することはまさに、学習者を永遠に客体として教育の現 場に見つけ出すことに繋がってしまう。ビースタが示す、「教育者は学習者に対して、彼ら の主体性を伸ばすことができ、それに関する道徳的教育をできると思ってはならない」とい うのはまさにここにおいてである。主体化の教育の目的はコンピテンスの獲得に関するも のでも、道徳心の会得に関するものでもない。ただ、学習者自身が、主体として世界に、も とい教育の場にたちあらわれるという現象、それも危うさとリスクに満ちた現象を促すと いうこと、それ自体にこの教育の第一の目的はあるのだ。それはつまり、1章の「概念を取 り込む」実践の様に、生徒達それぞれが、自身と出会う概念(語りかけ)にどのように応答 するのか、この主体的現象自体が目的であり、それは、平等と自由の教育者によって統制で きるものではなく、そして、コンピテンスの増大、つまりその概念に対する「理解」は、あ くまで応答の帰結に留まるということである。
主体として世界に立ち現われるという現象は、その人間の性質や能力に由来するものでは ない。そうではなく、尊重によって平等と自由の場を開くこと、それを始められるというこ とに由来している。その上で、世界の中で自らの選択のうちに応答する、行為するというこ と、ひいては「自らを生きる」ということ。これらはあらゆる学習者、すべての存在する人 間に等しく開かれた可能性である。

第2節  自由と平等の場を開く

ビースタは、世界と自己の弁証法的合一と批判的省察による存在のあり方、「世界の中 に、世界と共に成⻑した形で存在する」という主体化の教育の目的を示している。そのた めには、中断、解放、そして不和の概念を用い、学習者が「自らの自由と出会う」場、 「平等」の場を開くこと、そして、その上で「教える」という教育的介入、つまり「問い かけ、他者と出会わせる」ことが必要である。平等や自由は、これまでに示したように、強さの帰結として齎される「状態」ではなく、それは個人と個人の出会い、つながり、対 話、複数性を尊重することによって始められる。これは知能や体力、その他諸機能が勝 る、劣ることを重要視する関係性からは決して生まれない。それは人間が存在するという 尊さ、自身を構成する世界、他者への敬意、それらを認め、共にあろうとし、相互作用の 中で進んでいくという姿勢や態度に基づくものである。ゆえに、平等と自由の場は、教育 者と学習者から、親と子から、私と貴方から今、始めることが可能なのである。この解釈 について、ハンナ・アレントが彼女の書籍『全体主義の起源』の中で綴っていた言葉を引 用する。
「平等とは所与の事実ではない。我々が平等であり得るのは人間の行為の産物としてのみ である。我々の平等は、我々自身の決定によってたがいに同じ権利を保障しあう集団の成 員としての平等である」(Arendt 2017 p.353)
そしてこの場が、弱さを持つ人と主体化の教育において、非常に重大で、必要不可欠な 要素となる。弱さを持つ人が、なぜ主体として生きることを遠ざけ、自由を恐れ、最終的 に客体として、世界の中に存在することを望むのか。それは、自分が行為する世界が、そ れを受け取る他者が、不平等と不自由に基づいた上でそれを受け取り、抑圧的な視線、言 葉、行為が己に返されて来ることを、身をもって知っているからである。何かを語りかけ たとしてもそれは真摯に受け取られず、何かを行為したとしてもその行為は自身を離れ、 他者の不平等のうちに無視され、阻害され、重要とされることがない。だからこそ、彼ら はいつからか、主体性、批判的思考を閉ざし、不平等、不自由、弱さを内面化していく。 つまり、彼らの言葉や行為は他者によって奪われているのである。故に、主体の教育にお ける、教育者が開く平等と自由の場が重要な意味を持つ。教育者は、その場に弱さを持つ 人、主体を遠ざける人を引きずり出す様なことはしてはならない。その営みにおいては、 弱さを持つ人は、永遠に操作され、抑圧される客体として存在してしまうことになる。そ うではなく、教育者にできることは、自由と平等の場を開き、試み続け、そして問いかけ 続ける(すなわち出会い続ける)ことのみであり、ここにおいて主体化の教育に「弱い」 解釈(本質的に開かれ、またリスクを背負う)が齎される。それは正に、フレイレが『非 抑圧者の教育学』で示した「対話」を重んじる教育的営みであり、尊重に基づいた姿勢で ある。そのような、平等と自由(対話的で尊重に基づく)の場を開き、出会い続けること で、弱さを持つ人はその奪われた言葉を段々と、取り戻すかもしれない。その可能性にお いて、彼らが世界に行為すること、そして世界がそれを受け取ること、すなわち主体とし て世界に存在する現象が立ち現れる。

第3節  誰が主体に近いのか

教育システムの中で排除された「弱さを持つ人」が、教育者が始める平等の場に現れ、 言葉を取り戻した時、それは「世界の中に、世界と共に成⻑した姿で存在する」うちの、 (語りかける主体として)存在するということが叶えられる。そして残る、世界と共に成 ⻑した関係を築くこと、そのために中断と解放に伴う真正な省察、批判的に世界を見るこ とは、弱さを持つ人たちの、そのまさに「弱さを持つ」という状態の中でこそ行われうる と考える。自分が置かれている状況、抑圧的作用、権力構造、つまり世界の「常識」を批 判的に省察し、自らの思考に反映させることは、如何なる状況下で行われ得るのか、それ は端的に言えば世界に不満を持つ時であり、排除され、抑圧され、そして内面化し、弱さ を抱えながら生きている瞬間に引き起こされる。マイノリティに属する人々は、自身が社 会の常識から逸脱し、時に差別や抑圧的な言動を受けるからこそ、その理不尽な世界、常 識を疑う。そして同時に自身のアイデンティティ、生き方、ひいては存在のあり方を探 り、自己を見つめ、再発見していくのである。これは時に、連帯し声を上げる、行動す る、この不平等な世界に語りかけるといった行為に変わり、その時彼らはまさに「主体」 として世界に存在し、「世界の中に、世界と共に成⻑した関係を築く」ことを志向し、解 放の道を辿り始めるのだ。これらのことから、彼らは解放、主体に遠いは愚か、むしろそ れに近しい存在であるように考えられる。それは平等を始めようとする他者の存在と、自 由を恐れず、行為することによって始めることが可能な存在の形、「生きる」ことだと言 える。
一方、社会的強者は、いわば解放から遠いように考えられる。なぜならば、彼らが社会 の権力構造やそれに基づく常識、社会システムそのものを疑うことは、自身の存在自体 (全てとは言えないが)を自ら批判し、揺るがすことに直結するからである。強者がなぜ 強者として社会の中に立ち現れることが可能なのか、それは既存の社会のシステム、価値 観が彼らに対して有用だからである。つまり、高学歴者は、学歴を重要な指標とする社会 でこそ、真に高学歴者であり、高所得者は、所得が高い方が幸せであるという社会的常識 の中で、真に高所得者となり得る。故に、強者が自らの思考を中断し、批判的省察によっ て解放していくことは、自身のアイデンティティを脅かす行為として認められ、それは相 当な恐怖を伴うものだろう。強者が中断と省察から解放を辿り、真に世界と成⻑した関係 を気づくためには、自分自身に有利で、心地のよい「強い立場」を超える必要がある。自 身の強さを自分だけで獲得したものではないことを知り、自身が誰かを抑圧しているとい う現実と向き合い、弱さを持つ人たちと連帯することを志し、行為する、人と本質的に出 会う、対話する、そうすることでのみ、強者はそこから解放され、十全な自己として現れ ることができるのである。
このように考えると主体化の教育は、学習の場において強いと認められる人たち(高学 歴、評価の高い、有能な)よりも、むしろ弱く、教育システムから排除されてしまいがち な存在(低学歴、評価の低い、無能とされてしまう)の人々にこそ、適する可能性が認め られるのではないだろうか。主体化の教育は、他者性に基づく「顔」(外部から齎される概念)と出会い、その応答責任のうちに、自身の自由を行使し、現実を批判的に省察するこ とによって行われる。目的はコンピテンスの増大や、その教育的効果ではなく、批判的省 察と中断を伴いながら「主体として存在する」ということ、その営み自体であるがゆえ に、彼らは自らの弱さのうちに、それらを行うことができる。強者は、疑うこと自体が困 難であり、一致の教育でのみ強者とされる。まさに弱さを持つ人々の「弱さ」が可能性に なり得るのである。

終章  「弱さ」と主体にこだわる

第1節  主体として生きるということ

人が世界の中に存在し、各々の生活を営んでいく上で、自分自身の選択を自分で行う、 自らの思考や考えと、世界によって望ましいとされるものを擦り合わせた上での自己決定 は、個人が自らの人生を「生きている」という事それ自体である。つまり、世界の中に生 まれ落ち、社会の倫理やその時代の常識、規範、規則、抑圧者からの指示に囚われ、そこ か抜け出すことができずに人生を歩むことは、自らの道を何者(人と限らない)かに委 ね、操作され、つまり「生かされている」ことであり、本質的に「生きている」、すなわ ち主体として存在しているということを意味しない。
もちろん、人は、自らの選択を完全に自己の意識のうちに所有することなどできない。 構造主義者が指摘するように、どのような場合にもやはり社会の在り方や他者はその選択 につきまとうし、そもそも宗教的な解釈によれば、我々は超人間的な存在に生かされ、そ の存在の意向(運や業といった要素に現れる)によって行いを選択させられていると言え るかもしれない。また、そういった何者かによって「生かされた」状態が、必ずしも悪と は言い切るには早く、むしろ、主観を超えた世界の「真」なるもの、理は、概ね間違いな く存在し、人間はやはり生かされている。しかし、たとえそれらが重要な真実であり、自 らの人生に大きく介入し、影響するとしても、それは「人々が、自らの存在の仕方、生き 方について、自身の意識による選択を行うことができない」ということを意味しない。た とえ、人々を主体から遠ざけ、選択が不可能に思えるような苦しく、抑圧的な事象が日々 迫り来るとしても、それでも人々は過去を生き、今に至り、同時に明日を感じている。人 が自身を生きてきた「時間」の中には、確実に自らの選択の意識が存在しているのだ。そ のさまざまな選択は、人一人が主体として立ち現れたしるしそのものであり、自らを生き た瞬間である。その瞬間の積み重ねは、確実に人が自ら歩んだ時間に対する主観的な納得 や受容、生への了解へと繋がりを見せるだろう。これは、個人が生き、そして死ぬという 揺るがない事実の中で、非常に重要な事柄だと考える。
故に、やはり主体として存在し得るのか、否かという問いに拘る必要がある。それは、 あなたはあなたの道を、あなたの選ぶ世界とともに歩んで良いということの表明である し、また同時に、私は私の世界と共に歩んでも良いということの表明にもなる。つまり、 個人の性質や社会的機能、能力を超え、生命を尊ぶことにつながりを見せるということな のだ。故に、教育の営みは、「主体化」に目を向ける必要があり、それは人が存在してい るという事実、尊厳に基づいて「自らを生きる」ということ、そして同時に、社会の宿命 論的抑圧からの脱却を促していくのである。

第2節  「弱さ」の可能性

自己が有限な存在であり、弱く、不完全な存在として認めると同時に、世界とその常識 もまた変わりゆく、変えることのできる「弱く」可変的な現実だと認識する。自分が有限 だからこそ、今この時を、他者と共に生きていける。人間の弱さを知っているからこそ、 他者の弱さと出会うことができる、連帯することができる。強さでは、本当の意味での連 帯は難しい、なぜならば「強さ」が生まれる背景には競争と不平等に基づく論理が脈々と 流れているからである。強さを求め、力ある個を目指す限り、彼らにとって他者とは自身 のアイデンティティを生み出し、確認するための「尺度」としてのみ現れる。誰より劣 り、誰より優れ、誰より幸福であり、誰よりは不幸だ、といったように。それは生命の関 係ではなく、道具的な繋がりだと言えるだろう。しかし、自身の有限性、実在的な弱さを 認めるということは、複数性を重んじることに繋がりを見せる。つまり、自己が有限であ るからこそ、他者と生きようと思える、絶望が世界と出会う契機となり得るということで ある。
また、他者によって与えられた傷、痛み、苦痛と、それに伴う負の感情は、その不条 理、理不尽さを疑うことを促す。つまり、それは批判的な省察につながる。ヘーゲルが自 身の哲学で示したように、人の歴史は、不自由を克服しようと挑戦し、成し遂げてきた歴 史である。痛みが、人を自らの思考に引き戻し、批判的意識によって、主体としての行為 が生まれ、世界に語りかけ始める。キルケゴールは「絶望は優越であろうかそれとも欠陥 であろうか?純粋に弁証法的にいえばそれはどちらでもある」(Kierkegaard 1939 p.24 )と 残す。「弱さ」は、外部から到来されたものであれ、自身が内部に見つけるものであれ、 それを確認し、受容することによって、他者を揺さぶる「力」になり得る。心打つ表現は 「弱さ」を表したもの、その深淵を垣間見せる時に、人々の心に到来し、強い共感を生む のである。その表現は叫びであり、世界に語りかけることである。そしてこの瞬間こそ が、決定的に主体として世界に立ち現れる瞬間である。自身が望むものと、世界が真に望 ましいとするもの、双方の弁証法的合一からなされる行為、世界への語りかけは、フレイ レが「愛の行為」と呼んだ、平等と自由を志し、抑圧による苦しみと絶えず戦い続ける人 の在り方であり、それはすなわち十全たる自己、ビースタの主張する「世界の中に、世界 と共に成⻑した関係を築く」自己なのである。
本稿では、人が持つ(持たされる)弱さと、それを忌み、遠ざけ続けてきた「教育」と いう概念を用い、それらが繋がりを見せる可能性について検討してきた。資格化、社会化 による「強さ」を求める教育システムに疎外され、排除される「弱さを持つ人」は、その 教育の営みの目的が「主体化」に重きを置かれた時、彼らは正に自らの「弱さ」の中に、 その可能性を見出していくのである。確かに、「弱い」立場に置かれた人々が、その圧倒 的な不平等、抑圧の日々の中で、主体として立ち現れていくことは、非常に険しく、困難 と畏れが伴う現象だと考えられる。その道は、決して容易なものではないし、だからこそ「弱さ」の立場から始めることが何よりも切実で、重大なのだ。その一方で、人は生まれ 落ちてから今日まで、誰もが「弱さ」の記憶、成りたかった何かを諦め、他者への語りか けは誤解のうちに受け取られ、生きることの不条理性に苦しんだ経験を持つだろう。自ら の、主観的な絶望(失意)の中で、その「弱さ」と如何に付き合っていけるのか、光を当 てることができるのか、それは、自身の有限性に気付き、自らの生を、自らの足で、他者 と共に生きていくための契機となる。弱さと、それに伴う傷は、それ自体決して歓迎され るものではない。それらは人々から確かに生命の力を奪い、理不尽にも安寧を踏み躙る。 しかし、誤解を恐れずにいうのならば、弱さは、それを乗り越えた時、また、乗り越えよ うと試み続ける時、自らの底で、自らを照らす光になり得る。最後に、マタイによる福音 書5:3-5:6を引用する。
「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸 いである。その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである。その人たちは地を受け 継ぐ。義に飢え渇く人々は、幸いである。その人たちは満たされる。」(マタイ 5:3-5:6)
「弱さ」は正に、人が有限な自己と出会い、他者と繋がり、世界を省察し、主観的真理と 行為を通して、世界に「主体」として立ち現れる可能性を秘めているのである。

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