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教えることの再発見 ガートビースタ著
序
現代の学校教育の授業形式の主流となっている画一的且つ、知識注入型教育(チョーク&トーク)が、学習者から「学び」というもの自体を受動的なものにし、学習者全般を「客体」として存在させてしまうといった主張は、歴史上、あらゆる時代によって繰り返されてきた。確かに、教壇に教師が立ち、系統化された知識が大勢の学習者へ注がれるという授業はいわば学習者の意識がおざなりにされている状態であり、そこから授けられる学びの要素が学習者の中に残り、身になるためには必要以上の膨大な時間と労力が必要になる可能性が高い。さらに、そういった学習の問題に応答する形で実践されている「能動的学習」(アクティブラーニング)は、学習者自身から生まれる問い(生活の中に関わるものも含む)を中心に扱うために、学習者自身をおざなりにするものではない。学習者が自らをその場に主体として自らを存在させ、能動的に学び、自他共に関わり合い、それで得たものの使い方を自己決定することは、良く生きることに繋がると広く考えられ、そのための実践が重ねられてきた。しかし、ここでいう能動的学習には「学習者の自由と教師の指導」というジレンマがつきまとう。それは、自ら学ぶことが共通認識化された場で教育者が教えるという行為は往々にして、学習者の自由、主体性を制限する行為と見なされ、非難の的として扱われてしまうが、学習の全般を彼ら自身の裁量に委ねることもまた、「教育」という分野にとって両手放しで歓迎されることではないということである。これは正に「壇上の賢人、若しくは学習者の傍らにいる支援者・後ろにいる仲間」という言葉で表されるように、それぞれどの立場が学習者にとって良いものなのかという対立の構造を引き起こしてしまう。
では、このジレンマからなる対立構造を抜け出し、学習者が「主体」として立ち現れる場を担保し、尊重しつつも、教育者が「教育」という営みを行い、学習者のそれに寄与していくために、教育者へ求められる「教える」という行為はどのようなものだろうか。本論文では、この問いについて、教育学者ガートビースタの代表作でもある『教えることの再発見』を手がかりにしながら、次のような手順で検討していく。最初に、1章では、主体は一人の人間がどのように世界の中に存在することを指すのかを検討する。2章では、今日まで長らく続けられてきた「伝統と先進」の二元的教育の議論、さらにはそれらの議論を越えた第3の選択肢である「学習者の自由に向かって教える」ということについて検討する。最後に、以上を踏まえ、「教える」という行為が齎す影響や、実際の教育実践で適用された例、され得た場面について考えたい。
1 主体形成と教育
私達は多様な形で絶えず世界の中に存在し続けているが、その様式は人間が存在する場所や、周囲の人間といった環境、または当人の思考や意思などの様々な変数によって形作られる。さらにそれは「主体と客体」の二つの明確な分類が施さるものではなく、その在り方はグラデーションのように無限に広がる。しかし、明確な判別が不可能であることが事実として存在するとしても、あくまで「主体」として(それに限りなく近い形で)存在すること、しようと試みることにのみ、人が個としての自己を重んじ、同時に世界を尊ぶ生き方が見出される。ではそのような「主体」として存在するとはどのようなことか、また、それは「教育」の分野にどのように取り込まれ、機能しうるのだろうか。
・ 主体であること
主体であることとは「―自己と同一であるということーを意味するのではなく、むしろ自己の『外部』に存在することであり、世界を志向して『外へ向かい』世界のうちに『投げ出される』ことなのである」(Biasta2018 p.16)。また、世の中に存在するということは、出生の事実をその始まりとしているのではなく、「私たちの言葉や行いを通して、私たちは絶えず、新たな始まりをこの世界の中にもたらす」(Biesta 2018 p.17)とビースタはハンナ・アレントの思想を基に主張する。これは人が何かを行為して初めて、私たちは世の中に存在し始め、さらに行為を断続的に行うことによって、存在し続けていることを意味する。
しかし行為することは、世の中に存在することの半分でしかなく、もう半分は周囲の受け手によってもたらされる。それは、私たちの始まりがどのように到来するのかということは、「まったくもって他者が私達の始まりを引き受けるのかどうか、引き受けるとしたらどのように引き受けるのかに依存する」(Biasta2018 p.17)からである。自ら能動的に働きかけ(世界に向けて)その結果の応答を受け取り、省察し、考え、そしてまた世界に向けて働きかける存在であること、それが「主体」として世界の中に存在することである。更にこれを学習者と学習の場においての例で表すと、自らの知性をなんらかの形でアウトプットする(人と話す、文章にする、意見を表明する)ことは、世界に働きかけることであり、そうして初めて他人からリアクションが生まれ、この反応を受け取ることによってまた、学習者は考えを深め、(省察し、考え)また自らの学習に生かしていくことである。こういった学習者は、その場においては主体であり、客体として立ち現れるものではないことが理解できる。
・ 教育の課題―主体と成長―
そうだとして、この主体概念と教育とはいかに関係しているのだろうか。ビースタは、教育の課題とは学習者が「世界の中に世界とともにある他の人間を成長した存在にすること」(Biesta2018p.11)「すなわち主体として存在することの欲望を引き起こすことにある」(Biesta2018 p.12)とする。それは常に私の存在と世界との間の関係性について注視し、世界の中心や基盤に自己の存在を位置付けることなく、あくまで世界の中に存在することでる。つまり、世界の中心を占めていると認識することではなく、世界の中で、それと関係性を築きながら生きることができるものとして自己を捉えることである。これは学習者自身が自らを主体として世界に存在すること、世界と成長した形で関係を結ぶことを意味する。つまり自身の行為に関する欲望や思考を世界に照らし合わせ、その上で双方にとって望ましい形で行為し、反応を受け取ることによって、学習者は主体であると同時に、世界とともに存在することが可能になる。そして、これに関する意識を呼び起こし、その場を開き、存在することを促すことこそが、本論文で示す「主体のための教育」の目的とされるところである。
2 伝統と先進の教育
人間が「主体」として存在すること、また、世界の中に、世界と共に成長した形で存在するといった教育の課題には、学習者が自らの自由を行使し、世界の中へ自ら行為し続けること、つまりは主体であることを促すといった教育の本質が映し出されている。それに対比し、今日の教育、またはそれにまつわる議論はどのような展開がなされ、何を教育の目標として機能し、実際どのような問題点が見出されるのだろうか。
・二元的な伝統的議論
「「伝統的」と「現代的」の対立は、それ自体すでにふるくさいものであるが、私たちはまた、伝統的な教授それ自体に対する批判がいかに伝統的であるかを忘れてはならない」(Biesta2018 p.64)とビースタは述べている。「伝統的な」教授というのは、教師が話し、生徒は聞き、受動的に情報を吸収するというような教育である。これはもちろん、学習者はその過程の中で退屈し、主体的な存在から遠ざけられ、無視されているように感じるかもしれないが、同時にやりがいを感じ、魅了され、多くの学びを得ている可能性もあるだろう。また、今日人気がある、テクノロジーに媒介された教育形態が、伝統的教授の形態をしていることは言うまでもない。例えば、様々な動画配信サービスなどの教育的映像は、画面の向こうで何者かが話し、見ている者に情報を与えているのみにすぎない。このことから、伝統的な教授に対する現在の批判というものが実際どこか間違っているかもしれないという視点を忘れられるべきではないことが解る。つまり、ここでの問題は、教育に関する選択肢が、権威主義的な教授の形態に対する唯一の応答が、「教える」ことを廃止するという選択しか存在しないという2元的なものに限定されている点にある。更にこの時、進歩主義的な理論に沿って「教える」ことと、その教師について考え、再構築するといった第3の選択肢はほとんど考慮されることはない。
しかし、そこにこそ権威主義的な教育に対する新しい応答のあり方が見出されるとビースタは主張する。それは「自由」が権威の反対でも、逃走でもなく、世界やその中で権威を持つかもしれないものと「成長」した関係を築くという考え方であり、生徒が真に「主体」として成長した形で存在するための教育に関する第3の選択肢なのである。
・コンピテンスの増大
また、「伝統的」な二元論的論争そのものに有効的な意味が存在するのか否かを検討する余地も残されている。現代の学習現場、主に学校教育の場に見られる、知識注入型・銀行型教育では、主に学習者のコンピテンスの増強(知識・技術・能力など)が目指され、それはつまり学習者を教育の目的とし、文字通り「客体」として当事者らを存在させている。これは「授業」と言う言葉でイメージできる、教師が教壇に立ち、生徒に系統化されたカリキュラムの中で、それに関する知識を授けようと試みる活動に関しては言うまでもないが、それだけにとどまらない。現在「アクティブラーニング」と言う名目の上で行われるディベートや調べ学習についても、それらの活動は従来の授業とは形態は異なるとしても、学習者のコミュニケーション能力や、内省力、問題発見・解決能力などの一種の「コンピテンス」の増大を目的の第一に捉えられてしまった時、その意味において伝統的授業と根本的な差異が殆ど存在しないことが解る。
これが示唆していることは、第2章1節で触れた「二元的教育観念」は、その実、その壇上での議論は時にして空虚なものになる恐れがあるということであり、ビースタが提唱する第三の選択肢検討の必要性が高いことを意味している。
・ 一致の教育
伝統的教育に限らず、今日における先進的教育(アクティブラーニングなど)までもが、その目的を「コンピテンスの増大」とする時、すなわち、学習者自身を目的とする時、学習者を客体として存在させてしまい、両者を二分したはずの「受動」と「能動」の垣根を超えて、その意味において同一ものとして機能するという論理は、現代の能動的学習が形骸化してしまう状況に、明確な説明を与えている。つまり、コンピテンスの増大を目的とするが為に、グループディスカッションなどの手法、学習形態にのみ重点が置かれ、実際の「学ぶ」ということの質が担保されず、最終的には学習者の能動性、積極性を育むは愚か、受動的に学習へ向かわせてしまうというアクティブラーニングの失敗が引き起こされているということである。しかしそうではなく、学習者が「主体であること」を教えることの目的とした時、学習者は自らの知性を用い、世界と対話し、自らの観念や知識を省察する形で学習に向かうことになる。ここでは、コンピテンスの増大はあくまで主体として存在することの結果としてもたらされるものであり、それ自体は目的とはされていない。「ある方向に発達し、学習によって知識やスキルを獲得し、学習や発達によくあった学校制度からの系統的な支援を得るとき、子どもは変化し始め、まさに彼らを定義するところである欠落を埋め始め、これらがすべて成功したとき、子ども達は望まれる方向に進歩し、より知識があり、よりスキルを有し、よりコンピテンスを持つものになる。このように教育を捉えるとき、教えることには、促進すること、支援すること、少しばかり命令すること、時代の流れにしたがうことが求められる」(Biesta 2018 p.138) 。
そしてそれは不和としての教育ではなく「一致」としての教育と呼ぶことができる。このように、教育が資格化や社会科の形態として機能するとき、生徒は知識、スキル、態度を獲得して、より多くのコンピテンスを持つ「客体」として存在するが、主体として現れるものではない。今日の、アクティブラーニングの実践においても、生徒は確かに受動的というものではないかもしれないが、「アクティブラーナー」という形でその活動に参加しなければならない状況であり、彼らはあくまで客体としてそこに現れている。
現代まで続けられてきた「伝統的」と「現代的」の二元的議論とそれにまつわる一致の教育、またその目的である「コンピテンスの増大」について記述してきた。先ず、二元的議論のどこに実際の問題が隠れているのかについては、その他、第3の選択肢が殆ど考慮されていないことにその課題を見ることができる。また、二元的議論の内実を見つめ、考察すると、「現代的」も「伝統的」も同じ「コンピテンスの増大」をその活動目標とすることにより、それは「一致の教育」として機能し、学習者はいずれにせよ「客体」としてその活動に従事しなければならない。このことから、議論そのものが実際にはそれほど強い意味を持たないものであると判断できる。
3 学習者は主体として立ち現れる
現代的と伝統的のどちらでもなく、壇上の賢人でも支援者でもない第3の「教える」ことは、学習者と世界をどのように出会わせ、世界の中に、世界と共に成長した姿で存在することを「教える」のだろうか。その核となる概念は「中断」「解放」「不和」の3つに大きく分けることができる。3章では、これら3つの概念の概要の記述と実際に行われた講義の例を示し、それらの概念が教育者と学習者、教育という分野にどのような影響を与え、作用するのかについて検討していく。
・ 中断の理論
1章で触れたように、ビースタは教育の課題の定義を、「他の人間に、世界の中に、世界と共に成長したしかたで存在すること、すなわち主体として存在することの欲望を引き起こすこと」としている。成長するということは、自分とは別のものや他の人の多様性と統一性を認められるようになることである。それは自身の欲望を抑えることなく、私達自身の人生と、他者と共に生きる人生にとって、私達が望むものが社会と私自身にとって望ましいものなのかを問い、点検(一時の中断)されたものを受け止められるようになるということ(世界と対話している様な状態)でもある。
また、この中断は「継続」されなければならない。中断は、それぞれの思考や行為の中の中間点で生じるものだが、この中間点に学習者が留まり続けるように支援することが教育者には求められる。つまり、ここにおける教育者の仕事のほとんどは、生徒が自らの欲望に出会い、欲望を吟味し、選択し、変更し続けることのできる場所と時間を確保することだと言える。
・ 解放
1節の中断の理論は、自身の欲望と行為を世界と対話し、照らし合わせていく作業を示すものである。しかし、その際に用いられる「世界」とは、多くの場合「主観の世界」であり、自身が「現実」として認識している世界を指すのだが、これをより広く、より偏りなく、より豊かなものにする必要があるだろう。なぜならそれは、中断とその後の行為の性質を決めうるものだからである。では、その世界を構築していくために必要な「省察」についてこの2節で記述していく。
現代に至るまで、教育とはすでに自由な者たちへ向けられるものではなく、自由をもたらすプロセスであるとみなされ、自律的な主体としての個人と、その存在の解放に関与されるものであると考えられてきた。それはつまり、「抑圧された意識から、より十全な人間として存在できるようになること」(解放された状態)に、教育者のある関与によって「促される」ことが、教育という活動の役割だとするものである。
この「促し」とは「真正な省察」と呼ばれるものであり、今、目の前に「現実」として自ら捉えているものを「批判的」に省察し、その現実のヴェールをはぎ、現実についての知識を再創造し続けること。すなわち自らの知見、思考、視野を更新し続けることこそが、自らをあらゆる抑圧から解放し、自らの歴史の主体として学習者を存在させる促しである。
また、ランシエールは「説明」することは現代教育において「自分の知識を生徒たちに伝授し、彼らを自分の教養に向かって少しずつ引き上げること」を目指されて行われていると非難する。説明の場に入るとき、学習者は常に説明者に追いつこうとするが、理解し、追いつくためには説明家の説明を常に必要とし、その場に居続けなければならなくなってしまう。つまり、説明は「不平等の原理の無限の確認」として現れている。
では、そういった説明とは異なった形で教えることはどのような形態を取るのか。それは、生徒の知性を彼の知性に置き換えるのではなく、むしろ彼らの知性を自ら行使することを求めるものである。自らの知性を行使するように求められた時、学習者が自ら選び取る道、選択に関しては、誰かに知覚され、強制されるものではないが、唯一学習者が逃れられないことは「自らの自由を行使すること」である。ランシエールが、明確に示す教師の仕事とは、無知であるとされるものに「それ以上知ることはできないと認める満足」を禁止し、「尋ね、話すように要求する」ものである。それはまさに、説明の場や、その内容に対する理解不足、不用意からの「解放」であり、学習者の自由を取り戻す教育だと言える。
・ 不和の教育
伝統的教育(チョーク&トーク、画一的教育)に対する進歩主義的な議論が、教師を「壇上にいる賢人」から、「学習者の傍らにいる支援者」にし、さらには「学習者の後ろにいる仲間」にまでしてしまっているが、本来「教える」ということを教育者は放棄すべきではなく、「教えること」自体の定義をとらえ直し、再発見する必要があるとこれまで述べてきた。そこで、第3の選択肢、「生徒の自由に関心を持ち、その自由に向けた教育において教えること」が重要になるが、この際の教えるという行為は「不和としての教育」と言い換えることもできる。
不和の教育とは学習者に、教育者が学習者が(世界と共に成長した姿の)主体であることについて関心を払い、それを目指した上で、不可能なこと(可能性として見通し、予測し、計算することができないこと)を求めるという行為である。また、不和の教育では学習者のコンピテンス(知識、能力)の増幅を目的とせず、コンピテンスのなさについての主張、すなわち、「まだ準備ができていない」「まだ能力がない」「まだコンピテンスを持たない」という主張、そして「まだ主体になりたくない」や「むしろ客体である方が良い」といった主張全て拒絶し、既存の事柄を壊して始めて現れる。つまり、何かを行うという「行為」とそれを行う時に用いられる獲得済みのコンピテンスは既存の事柄であり、それを超える、共約不可能な要素を持ち込むことが不和が教育の活動として機能する必要条件ということになる。
さらにこの時、注意すべきことは、教育者が学習者についての知識や、教育関係の中で出会う人についての知識を過剰に有する(有したい)と思うところに問題があるということである。なぜなら、そうした知識は、主体としての未来「未知な可能性」を閉ざしてしまう恐れがあるからである。つまり、学習者がどの様な人間であるかを私たちが知らず、どこからやってきたのかも知らず、背負っているものについての知識を教育者が持っていない時にこそ、教育者は学習者たちが背負う過去、歴史、問題、診断という重荷から彼らを放つような、新しく、想像されなかった仕方で、学習者にアプローチすることが可能になるのである。
・ 実践 ―概念を取り込む―
これまで「教える」ということを再検討する際に重要となる概念についての説明を試みてきたが、本節ではビースタが過去に行った授業を実践例として紹介する。
その授業はビースタ著書の「教育という美しいリスク」(Biesta 2014)から選んだ7つの教育学の概念(創造性、コミュニケーション、教えること、学習、民主主義、解放、妙技)について検討するものであった。それらを一つずつ検討し、ある理解レベルに達した時、ビースタは学生に、それらの概念と自分の研究プロジェクトの関係性を検討するように求めた。それは、その概念についての学生達の理解が深まり、また学生がそこで得た洞察の幾らかを自分自身の研究に取り込むことができるだろうと狙ったものだったが、ここでビースタが学生に思い出してもらったことは、教育というものが、おそらくすでにそこにあるもの、現れつつある理解を伸ばし深めるだけでなく、「全く新しい何か、すなわち学習者がそれまで経験したことのない何かとの出会い」と考えることもできるということである。
このような背景のもとで、ビースタは概念の「取り込み」についての規則を追加する。学生にはこういった授業で、通常取り組んでくるように言われることを薦めるのではなく、つまり、この授業で議論してきた概念を理解し、意味を形成し、その上でその概念を各自の研究プロジェクトの「合理性」の中へ取り込もうとするのではなく、それらの概念の一つを取り込むように依頼したのである。実際には、初回セッションの最後に、机の上に扱う概念の一つが書かれているものを半分におり、学生に一つずつ選んでもらった。学生は自分が選んだ概念を自分たちの生活の中へと取り込み、2週間、その概念と共に生活する(毎日の一挙手一投足にその概念を呼び起こし、考え)ように求め、2週目の最後の日に学生にその取り込みの経験について報告するように授業を展開した。
この時、ビースタは決して概念の理解、了解を求めたのではなく、概念ごとの異なる実存可能性を開くように求めている。2週間の授業では、対話的なやり方で説明を進め、その日のセッションごとにそれぞれの概念の複雑さについて検討し、議論した。セッションでは理解や意味形成についての問いに取り組んだが、(その意味ではセッションは了解の演習の場であったと言えるかもしれない)その間も学生達はそれぞれの概念を常に念頭に置きながら、考え、行為することによって毎日を過ごす。それはまさに概念と共に生活を送るということであった。
言わばくじ引きのような形で生徒達が偶然遭遇した「概念」とは、世界からの語り掛けのように機能する。それは自己の中にはない、統制することのできない「声」であり、「視線」であり、「存在」である。それと出会い、生徒達はそれと共に生活を送る。これは、語りかけと共にあること、語りかけに対して何らかの反応を示しながら生きることであり、「世界の中に、世界と共に存在する」ことに他ならない。その結果、世界への理解が深まる、つまり概念への理解が深まり、ある種での「学ぶ」という行為、または結果がもたらされている。ここで注意したいことは、「学ぶ」ことが、この活動の目的ではない。概念に呼びかけられ、それと「対話」し、生活を送ることによって学習者は「主体」として存在し始め、その結果として概念の理解、つまり「学習成果」が追随している。そしてこれは、生徒が「主体」として世界の中に自分を存在させる行為を教育の行為によって「教えている」(促し、介入する)実践例に他ならない。
学習者が世界と自身を出会わせるための中断、その世界を吟味する省察、そして齎される解放と、それらに敬意を払った上で未だ見えぬものを志向し、自由と可能性を開くための不和の教育は、まさに教育者の「教える」という行為を通して、学習者を主体として存在することを促し、育んでいる。それは、学習が主体であることを抑制する教育的介入でも、教えることを放棄し、学習者の意のまま、それに追従する形の教育者像とも明らかに異なる。これがビースタが主張する、一致の教育や、それらをめぐる二元的議論の問題を打開し、教えることを再発見するということなのである。
終
伝統的教育と革新的教育(アクティブラーニング)の間で生じていた「教師の指導と学習者の自由」に新しい選択肢、視点を加えるべく「第三の教える」ことについてビースタの書籍を元に記述してきた。第3の「教える」とは、学習者が世界の中に、世界と共に存在する「主体」として立ち現れるように、彼らを信頼し、その信頼の場を開いた上で「教える」ということ、つまり教育者の一定の支援、促しを彼らに施すことだと言える。それは時に、学習者自身の欲求と世界とを出会わせ、世界と自身に問うこと促す「中断」として現れ、また、現実として自身が捉え、認識し、自らを抑圧してしまっているものを批判的に省察し、それらから解き放たれ、より十全な人間となる「解放」を促しものと成り、さらには、まだ可能性として見通すことができないもの、未知なるものを生徒に求め、共役不可能性を持ち込む「不和」として作用する。このような理論に沿って教育の活動に従事し、学習者と関わることによって、人ひとりが自分自身として自己と世界との関係を、行為と世界からの反応の受け取りを繰り返すことによって築き、自らの道を自らの意思・思考によって選択し、この有限の時間を十全な自己として生きていくための在り方を、各々がそれぞれの形で形成していくだろう。これは、個人を取り巻く人や環境といった「世界」の中で、自身の中の幸福に気付き、噛み締め、また、負荷や苦労は受容し、その上で人が「自らを生きる」ということに繋がる教育であると確信している。
しかしながら、不和の教育の理論で、ビースタが主張していた「信頼するために、彼らについて知ろうと欲求することの問題」に関しては違和感が残る。誰かについての知識(背景、歴史、状況)を「知る」ことは、その人間に対してのレッテルや、先入観のようなものを多かれ少なかれ引き起こし、彼らの学習のその先、未来の行為選択を教師が自身の内に勝手に予期、期待し、もしくは無期待や失望までも抱いてしまうことが往々にして存在する。これは、「今はまだ見通すことのできないもの」を目指す不和の教育とその実践展開のために信頼の場を開くということとって、妨げになる要素であることは理解できる。しかし、学習者についての背景、過去、背負っているものなどの情報を知りつつも、それらが教育者自身の思考に訴える先入観や未来予測、予期に拘ることを放棄し、彼らの選択とそれによって齎される行為の自由を尊重する時にも不和の教育やそのための信頼の場を開くことは果たして不可能なことだろうか。教育者が学習者について知ろうとすることは、その関係の構築に影響を与えるものである。互いにある程度認知し合い、それによって構築された関係は、そうでない、教育者が学生一人に関する知識はなく、知そうとすることすら歓迎されない状況が生む関係よりも、両者が共に行う教育の活動を円滑に、効果的にしていくように考えられる。その意味において、教育者が学習者についての情報を有する。そしてそれに拘らず、信頼の場を開き(この場合は尊重の場と言えるかもしれない)、不和の教育を通して彼らの「主体」としてのあり方を教え、促すといった教育理論は、検討される必要があるように考える。
参考
ガートビースタ著 『教えることの再発見』 東京大学出版会 2018年