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はじめに
僕は生来のグルマン精神に導かれて人が体験しない様な食を通じた出会いをしてきました。料理を通じてこそ出会える人。食を通じて本性がさらけ出される人間の本質。食を通じないと出会えない様な素敵な人間関係。    これこそがグルマン冥利と言えます。 
 
結論から言うと、世界各国で美味しい料理は地元の人に愛される料理店で食べるに限ります。世界各国の現地のグルマン、インフルエンサーに僕の好みと希望と予算を伝えて、連れて行ってもらって外れた事はありません。
地元の新鮮な素材をセンスの良いシェフが魔法をかける。
これが美味しくて良い料理です。。
 
日本の料理は健康的だと僕らや訪日観光客は信じているが、半分は良心的な素晴らしい料理ですが残念ながら、もう半分は様々な日本の法律の裏をついたり、自己防衛の為の次亜塩素酸ソーダ漬けの刺身だったり、観光客目当てで手抜きで日本の信用を毀損しかねない悪意に満ちた料理です。
 様々な口コミがブログ等のソーシャルメディアで氾濫しているが、まっとうな口コミは半分で、インフルエンサーに金を払って書いてもらうのは当たり前。同業者やクレイマーが悪意で投稿してもおとがめなし。個人のプライバシーの保護という名の元、善意の食事業者が傷ついています。
 
日本の国の乱れだけでなく食文化も無秩序のまま放置されています。
正に日本の食文化は今、荒野の中で彷徨っていると感じています。
 蜂の一刺しではないが、食を通じてこの国の矛盾を正していきたい。
何故なら食こそが文化であり生存に欠かせないものだからである。 
僕は己の味覚、嗅覚、感覚、直観を信じるしかないと考えています。  
 
僕はさすらいのグルマンだ。
 
悪童グルマン
誰や 私を殺す気か? 僕のお婆ちゃんが血相を変えて怒り出した。
僕が5歳の頃、お婆ちゃんが密かに冷蔵庫に隠して入れていた明治屋のMyジュースをマイって書いてあるので僕が飲んで良いと解釈しゴックリと飲んだ。美味しいので結局飲み干してしまった。罰が悪いのでオレンジ色の絵の具を溶かして瓶に入れ冷蔵庫に入れていたのが発覚した訳だ。
それ以来、いや僕が赤ちゃんの健康優良児コンテストで、虫歯で失格以来、グルマンとしてのさすらいが始まった。
テーブルに置いてあった、お婆ちゃんの翡翠の丸い宝石を砂糖菓子のチャイナマーブルと思って思いっきり口に入れたが、甘くなかったので庭に捨てて大騒ぎになったのが6歳の時。
幸い宝石は見つかったが、お婆ちゃんは暫く僕と口をきこうとしなかった。
 
出入りのお手伝いの旦那さんから貰った古いシュークリーム1箱6個を全て食べて急性食中毒を起こして生死の境を彷徨よい、幸運にも日赤病院副院長の叔父さんが家の近くの野球場に来ているのがわかり場内呼び出しの後、家に駆けつけてもらい、胃洗浄をして九死に一生を得たのが小学2年の時。
この中毒が原因で暫く僕の胃腸が弱り背が伸びるのが止まってしまい、
本来大柄で190cm位の身長になるなる筈が173cmになってしまった。
 
家の前の川で泳いでいる小魚を南蛮漬けにしようと、一計を案じて2B花火を瓶に詰めて爆発させて100匹位の稚魚を捕獲した。近所のおばさんが、爆弾騒ぎだと警察に連絡されて始末書を書かされる羽目に。これが小学3年。
同じ時期に台風で川が増水、大きな鰻が上流から流れて来たのを見つけ、川に決死の覚悟でダイブし、銛を使って2メートル位の鰻をゲット。
これで蒲焼が10個くらいは取れると近くの日本料理屋に持ち込んだが、料理長に「この鰻は決壊した池の主なんで、怖くて捌く事が出来ない」と言われ、渋々、池に放流に行き蒲焼を食べそこねたのは誠に無念でありました。
 
親父が貿易関係の仕事をしていた関係で当時は珍しかったコカ・コーラを貰ったので、これでコーラのキャンディを作って小学校の主として女の子に配ったら大好評。また、小学校3年生の時に学校の近くに防空壕らしき洞穴を見つけて僕の秘密のアジトにしていました。友達が僕のアジトに入る場合は入場料として、僕が好きなお菓子を差し出す事を義務としており、10名位の友達が僕にお菓子の上納の上、秘密基地へ出入りする事を認めていた。
家の近くには阪神競馬場があり、騎手の息子と友達になり競馬場内の池で不法で魚釣に興じていた。そこでは大きな鯰がよく釣れて唐揚げにしては騎手の人々と共に食べていたことも記憶している。
 
不良グルマン
中学校は池田にあり、学校の帰りに宝塚ファミリーランド入口のゲーセンに通っていた。スマートボール機の癖が判ったので、毎回30円の投資で500円位稼ぐことができた。そこの小母さんは怖い顔で僕が行くと睨みつけていましたが年齢制限が当時は無く、正当に稼いだ金で、一舟8個入り40円のタコ焼をぱくついた。遠回りの時は十三でネギ焼き1枚150円を悪友と食べてた。
   
高校時代 それは食べ歩きの始まり。手塚治虫を頂点とするときわ荘グループの真似をしてアニメーションクラブを設立。当時、高校生でアニメ制作をする事は非常に珍しかったみたいでTV局が取材に来た事を覚えています。
1秒15コマ位のセル画を画く事はすごく時間がかかりましたが15分のアニメで数千枚のセル画を描いたと記憶しています。当時は勉強もそっちのけでセル画を描き、成績はみるみる急降下。アニメーションクラブ創設前は成績は前から数番目。創設後はビリから数番目に転落してしまった。アニメ製作費の残りは部員35人で、食べ歩き費用に充当し、ホテルの卵料理は何処が優れているかとか、いっぱしの評論家気取りで食べに行っていた。
学生服を着た10数人の洟垂れ小僧がホテルのダイニングで料理評論を行っている。それは今思うとかなり異様な雰囲気だったと思っています。
ATGアートシアターギルドの過激なR18歳以上の左翼映画は、普段着に着がえて鑑賞に行き、殆どの仲間は影響を受けて爾後学生運動に入りました。
またチキンラーメンの創業者 安藤百福さんの息子さんが同じ学校だったので、味のチェックをしてあげる とか何とか言って大量に試作品のチキンラーメンを頂戴したこともありました。
 
ご馳走さんグルマン
 東京の大学に入ってからはいろんなバイトをしました。やはり一番良いバイトは賄い付きの家庭教師。生徒の成績が上がれば、霜降り牛のすき焼きが出るとか、これは間違いなくモチベーション向上になりました。     家庭教師を3件ぐらいかけ持ちして稼いだ金で、日本のオーベルジュのルーツの勝俣シェフが経営する『ビストロドシテ』に良く行きました。また喉ごしで味わう蕎麦の粋さに触れて『砂場』に通ったり、フランス語の大久保洋海先生に美輪明宏が歌う『銀巴里』に連れていただいたり、フランス料理『クレッセント』に行ったりして背伸びしたグルメ生活でした。

またmizkanの総帥になった中埜和英改め中埜又左衛門君とは 渋谷のパスタ屋『壁の穴』に頻繁に通い フランチャイズの可能性を議論しました。
 
窮屈なグルマン
さて社会人となりサラリーマン生活に入ると中々、自由がありません。  社員食堂は安いだけでつまらない。ただ『カハラ』の森さんが修行していた、居酒屋の『柿右衛門』に行って斬新な創作料理に驚きました。
その当時 英語、フランス語、ドイツ語を生かして取引先の欧米のお客様の接待役を仰せつかり北新地へ行く機会が増え、馴染みのクラブの裏方やバーテンを手伝ったり、タダ酒を飲んだりして、夜の商売の良しあしを含めた裏表を垣間見ました。当時の馴染みの新地ママとは今も交流があります。

但し、僕の退職送別会を上司が行ってくれた時には驚きました。会社の金で10数名の社員と共に高額なステーキハウスに招待された事です。多分数十万円の会社の経費を使ったと思います。尤も、僕が担当してた貿易の営業は僕一人で年間10億円を超え、他のライバルの平均売上の10倍くらい売上げて、年間1億円以上稼いでいたので、それ位しても良いと許可が出ていたのかも知れませんが。しかし僕は、僕を出汁にして会社の経費で飲み食いする会社は、将来的に存続しないだろうと考えていました。送別会はは心が重かったです。。案の定、新入社員として奉職していた会社は今、存在しません。
 
野に放たれたグルマン
暫くして考えるところがあり、独立。充電の為に世界一週旅行を敢行しました。その時フィンランドで食べたサーモンの味は忘れられません。これで鮭茶漬けをしたら秀逸だろうなと思いました。ドイツでは様々な生ビールを痛飲。フランスではマキシムドパリで僕だけでフルコースデイナー。ニューヨークでは1.5kg位のステーキを爆食。ハワイではポキサラダとトロピカルカクテル全部を痛飲。贅沢なグルメ旅行ではありました。その結果サラリーマン時代の蓄えが1か月で全て無くなってしまったので日本に舞い戻りました。
 
帰国後はテニススクールを始めましたが、クラブハウスにレストランを出しても採算に乗らないと考え、近くに出来たケンタッキーフライドチキンのマネージャーを説得して特別にデリバリーをしてもらいました。
今から数十年前に始めたアメリカ流のデリバリーはかなり好評でした。

さてテニススクールのご縁で、大阪心斎橋でビル経営を始める事になり関西では珍しいイタリアンレストラン『スエジユ』を開店。東京の学生時代に行っていたアントニオからコックを紹介してもらいました。
 当時は大阪では山根シェフの『ポンテベッキヨ コロッセオ』位しかありませんでした。同時にビル内では調理師免許取得講座も開講しました。第一回大阪万博生みの親 「油断」「知価革命」の著作でも有名な堺屋太一さんをキーノートスピーカーとして関西の文化復権の講座を開講しました。
そして神戸でフランス料理店『ラピスラズリ』を山中湖で生け簀料理店『海坊主』を、東京赤坂で洋食レストラン『筍香亭』を始めました。
 
海外放浪のグルマン
僕は30歳中頃からアメリカに移住し、日本の仕事はスタッフに任せる事にしました。欧州からの移民の国アメリカでは、残念ながら美味しい料理には出会っていません。ステーキ『紅花』のロッキー青木氏には会いに行きました。
数少ない美味しいと思った料理はサウサリートのフルビーフの分厚い焼き立ててハンバーガー、今では大谷翔平等もお気に入りのフュージョン日本料理で、ロバートデニーロが支援して多店化を進めたロサンジェルス ハリウッド松久君の『ノブ』、テキサスのナイフだけで食べて食べ終わったらテーブルにナイフを突き刺して帰るBBQ、そしてサンフランシスコのフィッシャーマンズワーフで買った蟹を僕の自家製ソースで食べる事くらいでした。
 
その後、イギリスでは僕のテイスティング能力を認めて頂き、マスターオブワイン協会傘下のWSETの日本での普及活動の仕事を任されていました。

フランスでは僕の美意識を評価頂いたエコールドフルーリストドパリのフラワーコデイネーターの日本からの留学斡旋の仕事をしていました。
フランスでは仕事の合間にルコルドンブルーでお菓子のレッスンを受講し、合間にミシュランの星のレストランを数十軒食べ歩きました。
まずフランス料理は塩の料理であり、余り熱い料理はありません。パンは余り美味しく感じませんでした。東京の老舗鰻店『野田岩』さんが店を出していて、オランダの天然鰻の歯ごたえのある蒲焼をたまに食べに行きました。フランスの美術館巡りも板につき晩年にはパリ12区あたりで、一人寂しくワインを飲みながらチーズを肴に朽ち果てたいとも感じた日々でした。

フランスではワインはイギリス程こだわりません。一方イギリスでは料理は最近ではかなり改善されましたが、それほど美味しい料理が無いの、ワインやスコッチウイスキー、ギネスビール等には逆に拘るのでしょう。
 
世界のグルマンは異なっている  
最近でこそかなり改善されて来ましたが、ドイツでは質実剛健というか、ビールと保存食のソーセージ、アイスバイン、ザワークラフト依存で美味しいレストランに出会った事は少ないです。
 フランスでは冬には生牡蠣に当たって死ぬ人が毎年かなりいますがニュースにもなりません。美味しい料理を食べてたまたま運が悪く死んでも本望というグルマンの悟りがあるのでしょう。
 
日本でフグの肝を食べて死者が出たら集団ヒステリーの代弁者マスコミも大騒ぎ。即営業停止となります。美味しいものを食べるにはそれなりに危険と向き合う覚悟が必要と思うのですがどうでしょうか。

グルマン タイ料理人になる
20年前にアメリカから帰ってきて偶然の出会いからタイ料理を始めました。東南アジアでフランスに似て美食の国はやはりタイでしょうか。
韓国、中国、その他世界の50ヵ国位に行きましたが、料理は各々の国の文化を体現しています。各々の料理は調理方法も含めて各国ならではの他国との交流の歴史と気象条件等の合理的な理由と特徴があります。

僕は先ずタイ料理を始めるにあたり、タイ料理の真髄の調理技術を学ぼうとタイの5つ星ホテル マンダリンオリエンタルホテルの調理実習を受けにタイに渡りました。アメリカでゴルフを通じて知り合ったタイ人の友人で大手レストランチェーンのアジア人初のマネージャだったP氏と連絡を取りました。日本の辻調理師学校よりも大きいタイの調理学校、デュシタニカレッジの講師でもあり、タイ王室が関係している高級レストラン『ブルーエレファント』とも親しいP氏の伝手で多くの優秀なタイ人コックの調理試験をしてから雇用し、タイ料理店クワンチャイを開店、多店化する事が出来ました。

僕のところに来たタイ人コックに最初に伝える事は、まな板は肉、魚、野菜と全て違うものを使う事。そして手洗いの励行です。同じまな板を使ったら不潔だと言うと、「社長大丈夫です。唐辛子で滅菌できるから」という。肉を切った手を洗わないで野菜を切ったら雑菌がつくから手を洗えというと、「大丈夫です火で炒めるから」という。なんか理屈は通っている感じはしますが、僕はこのおおざっぱさとおおらかさと彼らなりの生活の知恵が東南アジア料理を食べるとお腹を壊す原因と考えて厳しく指導しています。
文化の違いで腹を壊したら意味がないですから。

 昔のイタリアンと同じ様に日本のイタリアンは日本人がシェフとなるのが日常化していた事を考えて、将来は日本でもタイ料理店も日本人がコックになる時代が来ると予測しました。そしてアメリカと同じ様にレストランの主流は小型店になり、デリバリーが日常化し、僕がアメリカで日常的に行って来たホームパーテイの為のケータリングが進むだろうと考えました。
飲食業は個人の才覚と意欲によって反映する事からフランチャイズ化に最適である事。等々を考えてクワンチャイの直営店舗の多店化と同時に来るべきフランチャイズ化の準備を10年前から開始しました。
 
片手のグルマン
ここ数年 経営する直営タイ料理店では円が弱くなり、タイバーツが高くなった為に殆どのタイ人コックが他国や祖国に帰ってしまい急遽、昔僕が経験したコックに逆戻りし鍋を振る事になりました。
一方、その時 ふいに脚立から落下し、打ち身と思っていたら左手の力が入らなくなり、どんどん腫れていき、手首を骨折した事が判明。この傷は、無頼時代に喧嘩をしてヒビが入っていた場所が剥離したようでした。
骨がつながるまでの間の2カ月は三角巾で左手を吊るして実質片手で厨房に立つことになりました。昔、10kgのまな板を右足親指に落として複雑骨折した時は車椅子で厨房内を動き回っていたのですが、今回の左手首骨折はコックとしては致命的だと思えました。そこでネット等で情報収集し、片手だけのコックがどの様に包丁を使うか。鍋を振るかを調べて実行してみました。
まな板に釘を打ち込み野菜を固定して切る事や、性能のよい料理ハサミを駆使する事、トングと鍋を交互に持ち替え炒め物をする事等を実践しました。
これで判明したこと。それは片手が無い、立てない等のハンデイがあっても工夫次第で十分コックとして業務をこなせるという事でした。

いまや社会的弱者への偏見をなくすことは当然です。そして肉体的ハンデイを持っていても十分厨房に立てる事を僕は実証できました。今後フランチャイズ展開をする場合は、ハンデイキャップを持つ人や社会的弱者の人々にも偏見を持たずに「寄り添うフランチャイズ」として新しい展開をしようと決意した次第です。グルマンとしてコックとして一番大切なことは、五体満足よりもお客様の立場に常に立つ事。そして衛生管理を徹底しお客様に寄り添うという矜持を持ちグルマンシェフとして自信を持ち料理を供する事です。
 
誰もがグルマンになれる
良い立地でも何故か繁盛していない店。変な家主に遭遇して真っ当な店舗運営が出来ない店。親父が頑固すぎてお客様がなぜか寄り付かない店。業態変更したいが不安で踏み切れない店。会社を退職したが老後が不安だ。
そんな様々な悩みを、僕も一緒になって解決したいと考えています。
僕の半世紀に及ぶグルマン体験の成功と失敗の経験から、皆さんに寄り添って、少しは皆さんの手助けが出来るのではないかと考えています。

一つだけ言える事があります。絶対に過当競争に足を踏み入れない事。
所謂レッドオーシャン市場に入ったら、大手の会社にお金の力とマンパワーの力で我々庶民は負けてしまいます。
競争がないブルーオーシャン市場でコツコツとお客様を増やして行く事。
これが一番大切です。

常に新鮮な気持ちでお客様の立場に立てる感性を持ち続ける事が肝要です。           
そしてどんな些細な注文にも全力で対応して美味しい料理を心を込めて提供する事につきます。チェーン店に出来ない個別対応をする事は魅力です。
衛生管理と厨房、ホールの清潔さと整理整頓・在庫管理は全ての基本です。
出来る限り客様の好みと個性とお名前を覚えましょう。
きっと貴方は地域一のグルマンになれます。
 
グルマンの食を通じた邂逅 
食事は提供する側も食べる側も対等にしてくれる素晴らしいツールです。
グルマンでなくても、おなかが空いているだけでも良いのです。
料理の食べ方、残し方、飲物の選び方 それだけで人となりが伺えます。
僕は食を通じて普通では出会えない様々な人と邂逅出来ました。
 
この事は僕の人生の最大の宝物です。 
邂逅した著名人は数知れませんが その中の4名を記します。
 
玉村豊男さん  
画家、エッセイスト、そしてワイナリーのオーナー 文化人として、頑固だが、筋が通っている現代の日本の食のリーダー的存在です。玉村さんがヴィラデストワイナリーを立ち上げる時、僕もチャーターメンバーになりました。当時は日本のワインのレギュレーションは欧米のそれと比べて、商業主義で成分表記もかなりいい加減でした。しかし玉村さんが嚆矢となりやっと世界に胸を張れる日本製のワインが誕生した訳です。玉村さんからは直筆のボタニカルアートも頂戴し、今も大切に店内に飾らせて頂いています。
 
故島桂次さん   
NHK会長を退かれてから、島メディアネットワークを主宰され、僕は英語通訳と島メディアネットワークの主任研究員を拝命していました。胃の殆どを手術で摘出されてからは、一緒に食事に行くと、島さんが残された料理も食する羽目になり体重70キロの僕が90キロにもなり減量に大変苦労しました。食事は高級料理店ばかりで日本では無銭グルメ生活を堪能しました。故田中角栄さんの国会答弁の下書きを作った話や、細川連立政権の影の軍師だった裏話を聞かされました。挙句の果ては、長谷川君は政治家に向いているから仕事を辞めて転身しろとまで言われましたが、自由人の僕には到底無理ですとお断りしました。今でも政治に興味があるのはこのせいでしょう。

エルドアン大統領 
日本の橋梁工事視察に来日された時に、僕がトルコ エルドアン大統領ご一行の調理を拝命しました。敬虔なイスラム教徒であるエルドアン大統領の料理には当然ながら化学調味料不可。酒、みりん不可。飲物はニンジンジュースとミネラルウォーターだけという厳しい制約があり、調理に苦労しましたが、僕のアメリカ時代のベジタリアンを含めたホームパーテイの経験が生きました。総勢100名程度の料理だったが気にいって頂けた様でした。トルコテレビ局でも取り上げられました。食後にはエルドアン大統領と2人きりで政敵に刑務所に彫り込まれた話やトルコ政局の様々な話を拝聴しました。

故高円宮殿下   
僕がテニススクールを行っていた時、13歳以下の世界テニス大会を僕の経営していたテニスクラブに誘致して名誉総裁になっていただきました。テニスのお相手もさせて頂きました。どうしてこれだけ暑いのにビールも水も飲まれないのですかと聞いたら、着ているジャケットに汗が付かない様に我慢しているとのお言葉。トイレに行くにも回りの皆様が気を使われるので、朝にサウナに入って水分を抜いているとのお言葉。余りに自分に厳しく周りに優しかった殿下は早世されてしまいました。現天皇陛下と同じ様に聡明で英語も堪能で自分に厳しく素晴らしい方だっただけに残念至極です。 

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