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なぜ男性は映画『バービー』を受け入れられないのか:描かれなかった「痛み」と「ケア」
※この記事では「バーベンハイマー」については触れず、あくまで作中の気になった点についてのみ書いています。
①世界バービー現象
日本に先駆け2023年7月21日アメリカにて公開が始まった『バービー』は、たったの3週間で全世界興行収入10億ドルに到達した。
これを受け、本作の監督であるグレタ・ガーウィグは興収10億ドルを突破した初めての女性監督となった。
②日本バービー分断
そんなバービー旋風が世界で吹き荒れる中、8/11、ついに日本でも『バービー』が公開された。
初日に劇場へと足を運んだのだが、ピンクのコーデに身を包んだ女性たちで劇場は埋まり、上映中も笑いが絶えない楽しい鑑賞体験をすることができた。
しかし、初日から一夜明けた8/12、X(Twitter)で展開されていたのは、某男性漫画家のコメントに端を発した、本作を巡る激しい言葉のやりとりだった。
鑑賞した人に、この映画の意図するところ、目指す世界が伝わっていないという事実は確かに悲しい。
しかし『バービー』肯定派の中には「勉強してから観てください」のように、まるで鑑賞者側のリテラシーの低さや知識不足の結果、本作の意図したメッセージが伝わっていない、または誤読されていると決めつけているようなツイートをされているのをいくつか目にした。
「分断が止まらない」
私はそう感じた。と、同時に
「この分断が生じる理由を知りたい」と思った。
漫画家に対するコメントが集まっているが、まずは「映画のメッセージが届いていない」という事実を受け止めるべきではないか。
それは受け手側の責任なのか、作り手側に責任はないのか。
ケン同士を嫉妬で喧嘩させるという展開は本当にベストアイディアだったのだろうか。
観た後に女性も男性もWin-Winになる、もっと言うと「観賞後に、男性が思わずケンの人形を買いたくなる」ほど、魅力的なこれからの男性像をケンを通して示すことはできなかったのだろうか。
さまざまな想いが止まらなくなった私は、いてもたってもいられなくなり、こうしてnoteを書くことにした。
言葉にしていて気付かされたのだが、本作が男性に受け入れられない原因の一つは「男性同士のヒエラルキーと、それが生み出す痛み」を描かなかったことにあるように思う。
序文が長くなってしまったが、最後までお付き合いいただけると嬉しい。
③フェミニズム:性別にこだわらない連帯
簡単にだが、私のフェミニズムに対するスタンスを書いておく。
(※「人の数だけフェミニズムがある」なんて言われるように、以下の考え方がフェミニズムの正解ではない。あくまで私のフェミニズムに対するスタンスだ。)
まず、私はフェミニズムを「"女性による女性のため"の地位向上」だけを意味する運動とは捉えていない。
フェミニストであり、フェミニズムに関する多くの著作を残したベル・フックスは著書『フェミニズムはみんなのもの』で以下のように記している。
メディアが作り上げた男性像に苦しめられている男性と手を取り合ってこそ、フェミニズム運動は前進する。
また、自身の息子を育てるにあたって「男らしさとは何なのか」を様々な事例や取り組みから解き明かした、レイチェル・ギーザの『ボーイズ: 男の子はなぜ「男らしく」育つのか』では以下のように宣言されている。
真の永続的な変革のためには、フェミニズムは女の子や女性の生き方を変えるだけにとどまってはならない。
男の子や男性の生き方も変えなくてはならないのだ。
上記を踏まえて、私はフェミニズム運動を「女性のみでなく、男性との連携なくして達成することはできないもの」と捉えている。
また「フェミニズム映画」を私なりに定義すると以下のようになるだろうか。
①女性に対するエンパワーメントを描いていること
②既存の男性像に苦しめられている男性の解放も描いていること
④うまくいっていた:ピンクのエンパワーメント
本作は①「女性に対するエンパワーメント」はかなり描けていたように思う。
冒頭の、バービーが大統領をはじめとしたどんな職業にもなれている世界はまさに「夢が叶った世界」であったし、物語の随所で「女性が女性を認めることによる連帯(娘から母親に対してや、バービー同士)」が挟み込まれる度に涙腺がウルウルしまくっていた。
その後も、洗脳されたバービーたちを目覚めさせるところまではかなりノリノリで観れていたのだが、ケン同士を争わせる辺りから、私の涙は引っ込んでしまった。
先ほどのフェミニズムの定義に当てはめるのであれば「連帯」を描くべきであったにもかかわらず、映画は「勝利」を描くことを選んでしまったからだ。
⑤どこでミスったのか:"ヒエラルキー"と"痛み"の欠如
ここで軽くバービーランド奪還の流れをおさらいしておこう。
ケンが人間社会で「男性優位社会」を学び、バービーランドへ持ち帰る
バービーランドが人間社会と同じ「男性優位社会」へ変貌し、バービーたちは洗脳され、ケンに尽くすだけの存在へと変化させられてしまう
バービーたちは協力し、彼女たち一人ずつの洗脳を解いていく
選挙を妨害するために、ケンたちの嫉妬心を刺激しケンたち同士で争わせる
ケンたちが争っている間に選挙で勝利し、元のバービーランドを取り戻す
この後、アイデンティティを失ったケンに対してバービーが「あなたはあなたでいいの」的な言葉を投げかけ、一応、和解(?)のような展開に至っている。
ケンが「ケンはケンでいいんだ」というアイデンティティを取り戻すことで、私が先に示した②「既存の男性像に苦しめられている男性の解放も描いていること」をクリアしているかのように見える。
しかし、映画を鑑賞した男性が「救われた!」と言っているのを今のところ私は目にしていない。
なぜか。
それは、現実世界に存在する男性同士のヒエラルキーが生む"痛み"、つまり「男性は男性によって傷つけられている」という"痛み"を無視した構成にしてしまっていることが原因ではないだろうか。
本作では「女の子はみんなバービーなんだから、何にだってなれるんだよ!」というメッセージを伝えるために、バービー間で優劣をつけるという表現をしていない。(というか、できない。)
それにならって、ケンにも優劣をつけることができない。
あくまで「女性は女性」であり「男性は男性」、そこに優劣はないという世界が描かれている。
しかし、現実世界では女性にも男性にも明確にヒエラルキーが存在しており、それぞれの性別の中で、例えば「男性から虐げられる男性」も存在しているわけで。
そんな風に、ヒエラルキーから生じる様々な痛みを感じている男性に対して、この映画は救いをもたらさない。
救いどころか、ボロボロになった身体に「あなたはあなたの道を見つけなさい」とでもいうような無慈悲な言葉が投げかけられる。
果たして、痛みが解消されていない状態で、そのような言葉が受け入れられるだろうか。
私が先に示した「②既存の男性像に苦しめられている男性の解放も描いている」に該当していると言えるだろうか。
私は「劇中でこの痛みが解消されていないことが、作品に対する不満として表出しているのではないか」と考えている。
ではどうすればいいのか。
⑥どうすればよかったのか:ケン同士のケアという提案
「連帯を描くのだったら、バービーがケンをケア(つまり女性が男性をケア)してくれてもいいじゃないか」という男性の声が聞こえてきそうだが、フェミニズム映画においてその道はあり得ない。
バービーがケアをしてくれないなら、誰がケンをケアしてくれるのか。
女性以外の存在が、男性をケアする描写を描くことは可能なのか。
私はここで「ヒエラルキーの上位に存在する者が謝罪をすることは、虐げられている者にとってのケアになるのではないか」と提案したい。
具体的には、以下のような展開だ。
A.「男性優位社会へ巻き込んだこと」をゴズリングケンが他のケンへ謝罪する
B.「バービーのボーイフレンドという設定にしたこと」をマテル社がゴズリングケンへ謝罪する
順に見ていこう。
A.「男性優位社会へ巻き込んだこと」をゴズリングケンが他のケンへ謝罪する
そもそも男性優位社会は誰が作ったのだろうか。
無論、過去の男性であろう。
では、男性は生まれながらに「自分は女性よりも優位な存在である」と認識しているのだろうか。脳の構造やDNAにそのように組み込まれているのであろうか。
そんなことはない。先に紹介した『ボーイズ: 男の子はなぜ「男らしく」育つのか』において、「男らしさ」は社会から学習した結果、身についてしまうものだと詳細に述べられている。
学習の結果で身につくのであれば、まだその考えに染まっていない者を、第三者が意図的に洗脳することができるということだ。
本作のゴズリングケン(以下、長いのでゴン)は、まさにそれをやってのける。
人間界から「男性優位社会」を持ち帰り、他のケンを瞬く間に洗脳する。
ここが、物語においてヒエラルキーを生むチャンスだ。
新しい概念、それも自分たちが有利になるような概念を持ち帰ったゴンは、自らを「ケンの中の王」と位置づけ、バービーたちだけでなく、他のケンたちも部下のように扱い始めるというのはどうだろう。(だって男性優位社会ってヒエラルキーが大好きだから)
その後は、以下のような流れでバービーとの"連帯"へと話は展開する。
ケンたちの中にヒエラルキーの概念が生じ、ケンたち同士でマウントの取り合いが発生する。
マウント合戦に負けたケンたちは、家を追い出されるなどして待遇が悪化。その結果、"痛み"を抱えたケンたちが誕生する。
そこへやってくるバービーたち。痛みを抱えたケンたちと手を組み、ゴンの支配からバービーランドを取り戻すために動き出す。(連帯)
選挙の票数で勝つなど勝つ方法は問わないが、バービー×ケンチームはゴンに勝利し、バービーランドは男性優位社会から解放される。
ゴン、虐げていたことをバービーとケンたちの双方に謝罪。(ケア)
いかがだろうか。
上記のような展開であれば「男性優位社会を生み出した者からの謝罪」「虐げられた男性へのケア」そして「男性社会における女性に対する悪影響のみならず、男性に対する悪影響も描く」という本作ではなしえなかった社会問題も描けるかもしれない。
しかし、これだけで終わってはならない。
そもそもゴンが「男性優位社会」に惹かれてしまったのは「バービーのボーイフレンド」という設定に自分を見出すことができなかったからだ。
もし「バービーのボーイフレンド」という第三者からの刷り込みがなければ、彼も「男性優位社会」に傾向しなかったかもしれない。
ということは、諸悪の根源は「バービーのボーイフレンド」という設定を与えた者であり、その者からゴンに対する謝罪を描く必要もあるのではないか・・・
その者とはもちろん"マテル社"である。
B.「バービーのボーイフレンドという設定にしたこと」をマテル社がゴンへ謝罪する
Netflixに「ボクらを作ったオモチャたち」というドキュメンタリー番組がある。
子供の頃、夢中になって遊んだバービー人形。元々は、男性のための人形だったって知っていますか?有名なオモチャの開発秘話や歴史を関係者が語り尽くすドキュメンタリー番組 #ボクらを作ったオモチャたち で知るバービー人形の進化。世界中で世代を超えて愛される理由が少しだけ分かった気がします。 pic.twitter.com/VQl2Sp1h6S
— Netflix Japan | ネットフリックス (@NetflixJP) October 23, 2021
このドキュメンタリーは、ケンが誕生した背景に少しだけ触れている。
いわくバービーで遊ぶ女の子から「バービーにボーイフレンドはいないの?」という問い合わせが多かったらしい。
そこで作られたのが「ケン」である。
つまり「ケン」はそもそも「バービーのボーイフレンド」としてこの世に作られた存在であり、彼がバービーのボーイフレンドになることを選択したわけではない。
にも関わらず、劇中の終盤「ケンは私のボーイフレンドじゃなくてケンでいいのよ」なんて言われているのを目の当たりにした私は、口ポカーン状態であった。
与えられた設定を忠実にこなしていたにも関わらず「その設定で苦しんでいるのは、その人生を選んだ自分自身のせいよ」と言われる急展開。
これではまるで"自己責任論の肯定"ではないか。
ボーイフレンド=男性としての模範を押し付けたマテル社がゴズリングケンに謝罪するまでを描いてこそ、ケン(男性)たちは救われるような気がしてならないのだが、いかがだろうか。
もっとも、登場したマテル社メンバーの誰が謝罪するのかという話になると、元社長では女性が男性に謝罪する構図になってしまうし、現CEOはそのような精神を持ち合わせいていないので、ケンの苦しみがわかる別のキャラクターを配置しておくべきだったように思う。
⑦終わりに
本作は、女性に対するエンパワーメントという面においてはとてつもないパワーを持っているし、それ自体は大いに祝福されるべきだと思う。
一方、男性をフェミニズム運動に動員させるということには失敗しているように思う。
「これは女性、そして女の子向けの映画だから男性はどうでもいい」のだろうか。
男性をヒエラルキーのない「男性」としか描かない背景に、ミサンドリー(男性嫌悪)は潜んでいないと言い切れるだろうか。
観賞後の男性が「自分もケンみたいになりたい!!」と思えるような、これからの男性像を描ける余地も十分にあったのではないか。
そして、そういった男性像を描くことが女性の地位向上、果ては性別で待遇の差がない世界への近道になるのではないのだろうか。
「男性優位社会を持ち込んだキャラクターが男性に謝罪する」という、他の映画ではできないシーンを描いていれば、大傑作になったかもしれないことが無念でならない。
2023.8.15 追記
そもそもにはなるが「ケンにはバービーというガールフレンドがいる」という設定自体が、男性の中のヒエラルキー意識をより刺激しているという可能性はないだろうか。
仮に「パートナーがいないこと」で悩んでいる男性が本作を鑑賞し、ケンが改心する様子を目の当たりにしたところで「お前にはバービーがいるじゃないか!」という反発を生み、本作のメッセージが受け入れられない可能性があるのではないか。
(ここで「パートナーがいない方が悪い」と思った方は、少し立ち止まって考える時間をとってほしい。私が提議したいのは「この世の全ての男性にパートナーがいるわけではない現状において、パートナーがいないままでも"男性"を救える話にはできなかったのか」ということだ。)
もしそうであれば、そもそも「「彼女がいる=(人によっては)"恵まれている"」と捉えられてしまうキャラクターを「男性」として示すのは無理があったのかもしれない。