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Lines-意識を流れに合わせる@21世紀美術館

久々に金沢まで遠征したのは21世紀美術館で行われている展示を観るためだった。

そもそものきっかけは清澄白河にあるアートト。そこで受講したリーディングクラスでティム・インゴルド著『ラインズー線の文化史』を読んだことにある。
人が移動する軌跡が描く線、人とものが移動することで複雑に絡み合う線。生きている日々の中で描かれる線について、文化人類学の視点を交えながら歴史や環境を語った本である。描かれているけど見えない線があることに気付かされる内容でもあった。
一体それがどう結びついて展示になったのか?それがわかっていないまま、リーディング受講した何人かが現地集合して展示を観に行った。まあ、大人の遠足みたいなものである。同時に「発酵文化芸術際」も一部観ることができた。
忘れないうちに、何を思ったか書き残しておく事にした。

この展示は見えない境界をテーマにして、それぞれの作品をキュレーションした様に思う。人と自然、環境、人種、国籍、ものとの関係、などなど気づいていないだけで日常には様々な境界線-Lineがある。私たちはそれとは気づかず日常的に境界を作ったり、超えたりしている。その境界を作品によって可視化しようとする試みが、これらの展示になっている様に思えた。ラインとは単に点と点を結ぶのではなく、始まりも終わりも変化し必ずしも恒久的なものではない。
環境の変化によって繋がりや関係性も複雑になってくる。そこには生きていることで生じる不安や苦悩も含まれ、生きることはそれこそ一筋縄ではすまなくなる。

以下、気になった展示。
マーク・マンダースの胸像を観ると境界から離れて戻れなくなる様な不穏な感覚に襲われる。顔にめり込んだ板、今にも崩れていきそうな亀裂、床に落ちている破片…これを所蔵している21世紀美術館はさすがだと妙な関心もした。
同じ部屋にアボリジニアートの作家であるサリー・ガボリのカラフルなペインティングを並べるキュレーションはとても良いと思った。命の躍動感が伝わる作品と静謐な危うさが伝わる作品。全く違う様でいて根源は繋がっている。そんな印象があった。

八木夕菜の鯖街道を辿る写真作品。街道沿いの食材を辿ることは、それぞれの日常の営みをリサーチすることでもある。自然環境が変化することで、食の営みも変わっていく危うさ。今ある境界線=自然を守ることで継承されるものもあるのだと思った。リサーチの重要性と写真だからこその記録性、そのバランスが作品に強さをもたらす気がした。

エル・アナツイの巨大なタペストリー?メインビジュアルに使われている作品がこんなに大きく、複雑な表象だったとは!膨大な手作業で織り上げられたラインには圧倒された。
マルグリット・ユモーの作品。ミツバチやシロアリの巣が複雑で美しいと初めて知った。科学的でありながらどこか神秘的で、引き込まれる感覚があった。

様々なラインがそれぞれの作品に散りばめられている。通しで観ていくことで、その根源に引かれているラインが朧げながら見えてくる気もした。それはこの世界は多種多様な人や文化によって構成されているけれど、生きているという現実はみんな同じで、なおかつ命は有限である。有限だけどラインには終わりはない。命の終わりは大きな点になって次のラインを描こうとする。例えばここで観た作品が残って伝わることで、別の誰かのラインに重なったり繋がることもある。そうやってラインはあらゆる方法を用いて変化しながら繋がっていくもの。私たちはそのライン上で点となって、繋がりを作っていく。それこそが生き物の営みなんだなと思ったりした。

その後「タレルの部屋」でまったり。切り取られた青空と日差しがくっきりしていて、いつまでも座って眺めていられる気がした。境界を造らずぐるりと芝生に囲まれ、解放的空間を持つ美術館。何故、ラインズ?と思ったけど、ここだからできた展示だったのか。金木犀が香る庭をふわふわと自分でラインを引いて歩く心地良さ。
生きることは徒歩旅行を続ける様なもの。
1日で16000歩も歩けばそう思っても不思議はない。早起きした甲斐がありました。

マーク・マンダースが観られるとは!不穏だけど惹きつけられる作品。
サリー・ガボリの作品。理屈抜きで惹かれる。
八木夕菜「Passes」鯖街道を料理家中東篤志(あの中東!)と歩いた記録。
マルグリット・ユモーの作品。丸ごと有機物の持つ美しさ。
ミツバチの巣。自然の造形、神々しい感じがした。
タレルの部屋。本当に気持ちよかった。
満開の金木犀。たおやかで甘い香りが庭に漂う。
発酵文化芸術祭のイベントで買ったお弁当と振る舞い酒。どっちも美味しかった。
屋外にある作品の前で記念撮影する大人たち😉

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