『女ことばってなんなのかしら?』読了
小4ぐらいは「ぼく」時代だったじゅんぷうです、こんにちは。だってあのころって無限に走っていられたじゃん、ぼくたち。
そういえば『エースをねらえ!』のお蝶夫人は「あたくし」でしたね。
少女漫画やアニメで「あたくし」みたいな言い方は認識していたはずですが、それを発していたのって作品の中で「お嬢様」や「奥様」とされるいわば特殊キャラ。
「女ことば」をあらためて意識したのは大人になってから。名画座などで1960~1970年代の日本映画をよく見ていたころだと思います。スクリーンで男たちが「俺ァちくしょう、おまえに惚れちまったんだ」とか「余計なマネしてくれんじゃねぇか」「チッチッチッ」とか言ってるとき、女たちは「あらやだ」「不潔よ!不潔だわ!」「およしになって」。むしろ中性的な言葉を使う女のほうが特殊な位置づけ。
あまりにも男女の言葉が違いすぎてショックでした。それに文字で読むことはあっても実際に発声されると、あら、こんなに非日常感が出るのね(あの時代ならではの早口で硬質なセリフ回しのせいもありますが)。今だと外国人のインタビュー映像の翻訳や吹替に感じる異質さに近いかもしれません。
その後、職場でお嬢様言葉ブームがあったり、その延長でリアルでもLINEでも「~だわ」「~のよ」「~かしら」はわりと普通に使っている現在。それ系のLINEスタンプも使ってますね。
この本を読んで、なぜ、わたしが女ことばを使うのか、その答えを見つけました。もちろん、LINEスタンプのようにパロディ的に使っている側面もありますが…
じつは自分はこう思っている、じつは自分はこうしてほしい、ということを言いやすいんじゃないかしら。
『女ことばってなんなのかしら?「性別の美学」の日本語』著:平野卿子
サブタイトルに「性別の美学」とありますが、この著者さんが性別を美化しているわけではありません。日本人に刷り込まれている性別の美学によって、日本語には女ことばがあり、今も無意識の性差別下にいるということ。その美学に綻びを生じさせるのが著者さんの目的です。
そもそもは明治時代の女学生の話し言葉で、当時は「良妻賢母には似つかわしくない」とされる言葉だったそう。それが「良家の子女の言葉」と美化されて帝国主義に利用され、戦後にかけて一層「上品」「女らしい」と結びつけられてしまったようです。
こうした女ことばは、罵倒語がなく、悪態がつけない。
命令ができない。
これはつまり、女性は罵倒したり、悪態をついたり、命令したりできない、弱い立場の存在として位置づけられているということ。いやそのために推奨されるようになった。
女ことばに限らず、性差別がちりばめられた日本語の例を見ると、たしかに「人=男」であって女はその下だったり男に付随する存在なんです。わたしも最近「夫人」って何なんだろうなあと考えていたところでした。
英語やドイツ語には特定の「女ことば」こそないけれど女性が使う表現・言い回しはあるそう。それはやはり自己主張しない、遠回しだったり保険をかけるような物言いで、そこにも男女の力関係が反映されているのですね。日本の女ことばもそういう面がありますよね。
著者の平野卿子さんは1945年生まれの方で、引用のソースがすごく豊富だし、文章の感性が若くて親しみやすい。ドイツの児童文学を中心に翻訳をされていて『ロミー・シュナイダー事件』の翻訳もこの方だったとは!
「女の敵は女」という言い方についても言及されていますが、この言葉を作ったのは絶対男性ですね。女同士を団結させたくない男性。
ふだん使っている日本語の中にこんなにもジェンダー格差がひそんでいて、それを使う側が無意識であればあるほど、根深い問題であることが理解できました。
ふとサザエさんの言葉づかいを思い出しました。分析目線で見てないから半分想像だけど、サザエさんは波平には敬語、フネさんにはたぶん女ことば(フネさん自身は江戸弁に近い?)、マスオさんには女ことばも使いつつ対等な感じ、カツオとワカメには命令できるタメ語、タラちゃんにはもう少していねいな言葉、って感じじゃないですか? お蝶夫人とは違うけど、今思えばサザエも特殊な人かもしれません。
この本の前に読んでいた『モヤる言葉、ヤバイ人から心を守る言葉の護身術』でも日本のジェンダーギャップ指数の低さはたびたび指摘されていました。ああ、この2冊を12歳のわたしに教えてあげたい。性差別にモヤった日のこと、忘れません。
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