有吉佐和子「非色」を読んで
いや面白かった。文章も、テーマにも引き込まれた。
最近文章といえばハウツー本やKindleUnlimitedの読み上げ機能で耳に入ってきやすいものばかり読んでいた気がする。
「いかがでしたか?」
「まとめ」
「PREP構文」
構成ばかり気にして中身の薄い文章なんてどうでもいい。自分の文章も足元にも及ばない。
字しかないのに、情景が浮かんでページを繰る手が止まらなかった。
きっかけはNHKで「Black Lives Matter」運動をきっかけに、1960年代に発刊されたこの「非色」が再刊されるという特集だった。
有吉佐和子は1959年にアメリカに留学し、自分自身も人種差別を受けたであろう彼女の経験がベースになっているという内容に、興味を惹かれて購入した。
以下ネタバレを多分に含むので、先に本を読みたい方はここでストップし、事後に読んでコメントいただけると嬉しいです。
(また、作中には現在では禁止用語となっている黒人を差別する言葉が多用されていますが、下記文章にもそのまま使っております)
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あらすじ少し
主人公の笑子は戦後、アメリカ進駐軍の主に黒人が出入りするキャバレーのクロークとして働き始め、母や妹の生活を支えていた。
そんな中、進駐軍で伍長の黒人男性トムにデートを申し込まれ、「キャバレーの女とは違う」と自分を女神のように大切に扱い、笑子の家族にどっさりと進駐軍の物資をくれるトムと付き合い始める。
しかし子どもを身ごもった途端、母は「黒んぼの子どもなんて、おろすんだろう?」
当時の日本人の間で、物資の豊かなアメリカ人でも白人は憧れの対象、黒人は蔑みの対象であることがこれでもかと描写されている。
笑子は黒い肌を持つ娘への差別や家族からの後ろ指に嫌気がさし、先に帰国した夫を頼ってニューヨークに渡るのだが、アメリカでも様々な差別を経験していく。
ここでは日本人への差別は描かれない。代わりに、「戦争花嫁」として海を渡った4人の日本人女性が、結婚相手の人種によってどのような暮らしやポジションを持つかが、比較対象として描かれていく。
「白人と結婚した日本人女性から、黒人と結婚した日本人妻への蔑み」
「白人の中でも地位の低いイタリア人と結婚した日本人妻への蔑み」
「黒人の夫が『黒人よりも下の、最下層の人間』としてさげすむ白人プエルトリコ人の日本人妻への蔑み」
「戦争花嫁(ワーブライド War Bride)」として海を渡ってきた日本人妻への蔑み」
「白人女性には声をかけられないが、日本人女性には厚かましく夜の誘いをする日本人駐在員」
「白人女性からユダヤ人への差別」
「アフリカ人エリートによる、アメリカ黒人への差別」
笑子自身は何度も「人を分けるものは色ではないのだ」と考える。
「私はニグロと結婚しています」と言ってみせ相手の顔色が変わるのを見る、一方で、「自分は(売春婦に多い)プエルトリコ人とは違う」といったたりする。
利発な自分の娘が居候の叔父を「働かず、学ばず、社会に貢献しない者に人間の価値はない」とアゴでこき使うさまにも、「何が人を分けるのか」と考える。
「色ではないのだ」
「支配する側と、支配される側なのだ」
考えたこと
日本人はこういった人種問題に本当に鈍感で、私自身も子供の頃は単純に「外国人といえば金髪碧眼」「ハーフの美少女」が描かれる漫画やアニメを見て育ってきた。
学校で「差別はいけない」と習っていても、昭和のTVには黒人のように肌を塗りたくっておどける芸人が普通に放送されていたし、今でも「肌の白い外国人の血を引くタレント」がもてはやされている。
白人に憧れ、黒人をさげすむ。でもそんな単純なものではない。
自分自身、マレーシアにいた頃フィリピン人やインドネシア人のメイドさんにお掃除に来てもらっていた。
彼女らの中には「決してこちらに心を許すことはない」態度の人もいたし、こちら側も「鍵を渡して留守中に掃除してもらう」ということはしなかった(実際にメイドさんによるの窃盗はよく耳にしました)
一方、「日本人は人を使うのが下手だ。もっと強く言わないと」というような声は聞いたし、「親日家のマレーシア人がお掃除の人(インドネシア系やフィリピン系)にきつく言う」のを見て複雑な気持ちになった記憶もある。
田中真紀子さんの「世の中には3つの人種しかいない。家族と、使用人と、敵だ」という言葉も思い出した。
小説の中で、黒人の夫がプエルトリコ人を蔑んだり、主人公の笑子自身が「プエルトリコ人と一緒にするな」というのは 「自分はまだましだ」「自分にはまだ下がいる」と思う人間の心理なのかもしれない。
自分の中で結論も「こうするべきだ」も出ていない。ただ、自分の中にもある無意識の偏見や普段のふるまいに何かを突き付けられたような気持ちになっている。
おまけ 人が差別する心理
心理学的に何か結論が出ているのか調べてみたが、Willsによる下方比較(downward comparison)という定義が沢山引用されていた。
自分が理解できた部分を抜き出すと、
人は自分より不幸な人と比較することによって、自分の主観的な幸福を高めることができる。
下方比較は主観的な幸福の減少によって引き起こされる。
下方比較は他者への能動的な価値低下(derogation)によってなされうる。またそれにともなって自己と他者の心理的距離が増大 する。
下方比較は他者を積極的に傷つけることによってなされうる。ま たそれにともなってより不幸な人との比較の機会が創出される。
下方比較は地位の低い人に向きやすい。
ということになる。そして佐藤裕氏の「[見下し]の理論と差別意識」
の中では、「社会的集団的な差別構造は、Wilsが定義した個人的な見下しが集団からより下層・弱者集団に向かうことで権力構造を補強している」という趣旨が述べられていた。
最後に
自分の内省でしかない長文書きなぐりを読んでくださった方、ありがとうございます。本を読まれた方、感想をシェアしていただければ嬉しいです。
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