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不器用なままーー清志郎の歌を聴いて

命にかかわる病気ではないけど、ひどい辛い病気にかかって、自宅療養しているときに、たまたまYoutubeで流れてきて、久しぶりに忌野清志郎の歌を聴いた。そう、好きだったのを思い出した。

聴いたとたん、涙がボロボロとこぼれた。嗚咽が出てきた。訳も分からず、泣いた。ダイレクトに感情に、ハートに突っ込んできた。せつなくて、純粋で、暖かくて、なんだか悲しくて、悔しくて、感情が込み上げた。

忘れていた何かを思い出した。
私は大事なものをいつの間にかお金のために売ってしまっていたのかもしれない。そんな気持ちが強くこみあげた。それが、「悔しくて、悲しくて」の気持ちだった。
ずっと前は、お金よりも愛、つまり心や気持ちが大切だと思っていた。
お金より大切な自分の気持ちがたくさんあった。それは曲げられないもので、大切に守られていた。

しかし、いつのまにか、器用さを演じるようになった。うまくやりたいから、塩梅をしたり、適当にごまかしたり、見て見ないふりをしたり、仕方がないからといって相手に合わせたり、傷つきたくないからといって心を閉じたり、人と距離を置いたり、そんなことが増えた。そして、思いのほか、それが上々に器用にできた。

それが違うって思っていても、人から誤解されても、人から嫌われたりしても、やりすごす技術を身に着けた。

そうやっていても結局、傷ついてるときは、傷ついてるんだろうね。

本当は、大声で叫びたいのだ、「ちがう、ちがう、ちがう!!」って。「わたしはそんな人間じゃない」って。

そして、みえないところでストレスが溜まり、体が壊れてしまう。私は自分を守るつもりで、結局は自分を傷つけていたのかもしれない。

感じやすい人間が純粋さを保ちながら生きていく事はとても難しいと思う。それを不器用と言うのだろう。

忌野清志郎の歌を聴いていると、魂の純粋さのままで、疑うことを知らずに、大人になっても世間や俗なものとやりあい、傷つき、失望しながらも、まだ自分を変えられずに純粋なまま、まっすぐなまま生きていたんだろうなと感じた。

不器用さ、そう、そういう不器用さ。不器用なままでまっすぐで。

そういう不器用さを、愛のままに、作品に昇華しているところが、忌野清志郎の歌の素晴らしさだと思うのだ。


不器用なままで、生きる。
不器用なままでいいのだ。


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誰もいないところで、泣く。

思いっきり泣く。

仕事の人も、子供たちも、家族も、いないところで、

自分に戻って、こころから泣く。

泪がたくさん出てくる。

わたしはわたしだ。

どこまでも変われない。
どこまでも変わらない。

わたしは、わたしだ。

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